1日目:2019年1月26日(土)ワークショップ
開催場所:中谷宇吉郎 雪の科学館 映像ホール
01|開会
02|あいさつ 加賀市長 宮元陸
03|プロジェクト概要説明 岡﨑乾二郎(かがく宇かんディレクター)
(関係者写真撮影・アイスブレイク)
04|雪の科学館 展示観賞
05|ワークショップ(テーマを起点に研究員からの自由な話題提起と議論)
06|閉会
アーティスト リサーチ フェロー
中井悠[音楽・その他]
高嶋晋一+中川周[美術・映像]
松井茂[詩人/情報科学芸術大学院大学准教授]
ミルク倉庫+ココナッツ[芸術家群]
豊嶋康子[美術家/武蔵野美術大学非常勤講師]
高谷史郎[美術家]
白井美穂[美術家/女子美術大学特別招聘教授]
ぱくきょんみ[詩人]
藤幡正樹[メディアアート]
岡﨑乾二郎[造形作家・批評家/中谷宇吉郎記念財団理事]
中谷芙二子[霧の彫刻家/中谷宇吉郎記念財団理事]
リサーチ フェロー
中村泰之[webデザインエンジニア]
三輪健仁[芸術学/東京国立近代美術館主任研究員]
後安美紀[生態心理学・一般財団法人たんぽぽの家]
前嵩西一馬[文化人類学 ・沖縄研究/明治大学ほか非常勤講師]
辻田勝吉[ロボット工学/大阪工業大学准教授]
高橋明彦[日本文学/金沢美術工芸大学教授]
大雪だった去年に比べれば今年は暖冬でしたが、地元住民は最も寒くなる1月下旬から2月にかけて大雪にならないか心配していました。結果的に、2日間だけ降りつづいた雪は、ワークショップと公開研究会で構成された「カガクとクウカン/ときどきクモリ」をこの上なく彩り、多くの人々が「宇吉郎さんからの手紙だ、メッセージだ、プレゼントだ」と思い思いに雪を眺めました。
プログラム初日は、「かがく宇かん」プロジェクトにおいて「研究員」と呼ばれるアーティスト、エンジニア、キュレーター、人類学者、文学者、心理学者、詩人らから構成されるメンバー17組20名が加賀に集結し、非公開のワークショップを実施しました。このワークショップでは、翌日にひかえた公開研究会に向けて、「かがく宇かん」が目指すものを確認し、各自が持ち寄った研究テーマを共有する目的で雪の科学館内映像ホールで行われました。
ワークショップは、さまざまな解釈や展開が可能な議題をめぐり、研究員の多様な専門性と関心が行き交う重層的なブレインストーミングでしたので、何が語られたかをまとめることは困難な作業で、筆者の理解を超えている部分も多くありました。そこで、筆者が実際に現場で聞いたことや記録映像を見直しながら何度も出てくるキーワードを中心にピックアップして、研究員の発言と共に会議ログのようにレポートすることしました。
岡﨑乾二郎ディレクターによるキースピーチは、中将姫伝説やテイラーバードの巣作りについて言及しながら、ある文化に潜む異質なものがその文化の固有性を引き出す、という仮説を提示するところから始まりました。「かがく宇かん」が目指すものは、ミトコンドリアのように異質でありながらもある環境に入り込んで何らかの作用を及ぼすことにあるとしました。また、ものごとの価値の所在はその制作プロセスや制作された場にこそあるとし、そのことは文化や知識の伝承方法を形づくることを指摘しました。これらの指摘には、中谷宇吉郎が生まれ育った加賀市、そして宇吉郎が実践した「科学の心」とその伝承に対する敬意が込められていると同時に、ある文化や環境に入り込む、あるいは取り込まれてしまう異質なものとは何か、という問いが立てられました。
ワークショップでは、親しみを込めて中谷宇吉郎に言及される場面が度々ありました。「かがく宇かん」プロジェクトにおいて、宇吉郎の生き様や業績に立ち戻り、それらを観察することは基礎研究のようなものなのかもしれません。
「1900年に生まれて1962年に亡くなっている宇吉郎はどんな本を読んで、どんなことが好きだったのだろう?」(ぱくきょんみ)
「宇吉郎さんは、若い研究者に最低3000枚の写真をとらなければ何かが見えてこない、研究にならない、と言っていたそうだ」(高谷史郎)
「雪の結晶を横から見た写真(立体図)で見ることができて良かった」(後安美紀)
「中谷宇吉郎博士は雪の結晶に何か異質なものを見つけた」(岡﨑乾二郎)
雪の科学館の中庭には、宇吉郎ゆかりのグリーンランドから運んだ石を使った中谷芙二子さんによる霧の彫刻が展示されています。それに関連して、三輪健仁さんは、東京国立近代美術館にコレクションされたロバート・スミッソンの作品「ノンサイト」シリーズ(1969年)を引きながら、本来は100年ぐらいの時間軸を射程にしている美術館に突然それを超えるものが入って来たエピソードを披露しました。ものが持つ時間や近代美術館が今後扱うであろう多様な時間軸について考えるヒントをワークショップで得たいと述べました。中谷さんが加賀へ運んだグリーンランドの石は、異なる時間軸の共存や移動というトピックの起点となるモチーフになりました。
「川の石と違って、氷河に取り込まれて運ばれてきたグリーンランドの石は摩擦が起こらず形が残るので、全部が個性のある石なのです。」(中谷芙二子)
主客二元論、心身二元論、認知と操作性の違い、知覚の整合性、時間、歴史、宗教、漫画のコマ割りなど多岐にわたるトピックで、ワークショップ冒頭で高橋明彦さんが考えてみたいテーマとして挙げた「連続性と断絶性」について多く言及されました。
「自分ではないところにある自分の意識、時空間を超える自分の実験を、ロボットやシステムを使ってやってみたい」(辻田勝吉)
「100年というのは、なんとなくものを考えるスパンとしてあって、人間が具体的にある程度想像できるスパンなのかと思う」(三輪健仁)
「10分のズレが(探査機をコントロールする)オペレータの標準になる」(辻田勝吉)
「(地上ではない)外部に自分がいるという状況が生まれる」(辻田勝吉)
「曲に同期させて(記録映像の)時間を変えている」(豊嶋康子)
「(コージブスキーの「地図は現地ではない」を引いて)現地は持続としての生きられた時間であることに対して、地図は時間を対象化している」(高橋明彦)
「ブッダは時間からの離脱を可能にしたにもかかわらず、結果的に大乗仏教として反復した」(岡﨑乾二郎)
このキーワードは、音楽、映像、パフォーマンスといったタイムベースド・メディア表現を参照しながら度々言及されました。とりわけ、カメラが目撃した出来事の記録映像を「再生」するということは、一回性の出来事が反復されると同時にその出来事の価値が変化することが指摘されました。例えば、豊嶋康子さんによる勝敗の判定が割れた相撲の取り組みをスロー再生した映像作品、動物同士が同時多発的に捕食し合う決定的瞬間を撮影した映像が高嶋晋一+中川周さんによって映像サンプルとしてプレゼンテーションされました。
「映像は希に起きたこと(を写したもの)ほど、頻繁に見ることができるようになる」(高嶋晋一)
「(山村暮鳥の詩《風景》を読み)むしろ反復があるものの方が一回性を感じる」(岡﨑乾二郎)
「一度しかないことを何回も繰り返すことができるものが映像だとすれば、何回も繰り返されることが1回しか起こらない、と捉えることもできる、ということが映像の一要素でもあるのではないか」(中川周)
「いまここで成立するもの(パフォーマンス)を反復できるように美術館で収蔵することが世界でトレンドになっている」(三輪健仁)
「二度死ぬ、ということはどういうことか。一度きりしか起きないはずのことが二度起きるとは」(高嶋晋一)
「一回性ということ自体にエビデンスがあるのか、ないのか」(高嶋晋一)
確かなものが希薄になっている現代において、何が経験のエビデンス(裏付け)となるのかという問いが立てられました。それに対して、「事故」というキーワードの解釈や、観察や実践という行為を通して根拠を形作り、補完していくことに注目しました。
「僕らはプラクティス(実践)とエクスペリエンス(経験)を書き換えることが仕事なのかな、と」(藤幡正樹)
「個別の存在自体を重視することは、西田幾多郎の「純粋経験」のようなもの」(高橋明彦)
「藤幡さんの言う<事故>が起きなければ、自分が何者かわからない」(岡﨑乾二郎)
「ブッダは、預言者や神の子として言葉を伝えるのではなく、基本的には自分で観察して実践して分かったことを教えている」(中井悠)
「僕らはそれぞれ出自が異なる7人が集まり、グループで場所から作品を作るという活動をしています。」(ミルク倉庫+ココナッツ)
「見えないものを見えるようにする、ということは科学も芸術も古代からしてきたこと」という確認がぱくさんからあった一方で、視覚情報の90%は意識にのぼらないという「システムの欠陥」ともいえる人間の見落としについて高谷さんが言及しました。また、「いちめんのなのはな」から始まる山村暮鳥の詩《風景》のレイアウトがウェブサイト上では崩れている点について松浦寿夫さんから指摘があり、その延長で、異なるプラットフォーム間でのコンテンツの同一性を感じる構造についても問題提起されました。
「近代の詩人や人々が雪、雲、空、気象とかに関心があったということは、科学と芸術の結びつきを考えるうえで意外とおもしろいことなのではないか」(ぱくきょんみ)
「中谷芙二子さんの人工霧が彫刻であるとするならば、今まさに自分の職場で、声が彫刻になるような舞台を作っています」(後安美紀)
「(詩を)読むと視覚的な印象がズレるということも大事」(岡﨑乾二郎)
「(ウェブサイトの)余白の設計をしています」(中村泰之)
「(スマートフォンに)何万枚もの写真を持ち歩いているが、何も見えていない」(高谷史郎)
「人に見せない作品を作っている」(豊嶋康子)
前嵩西一馬さんが「我々の普通の歴史感覚ではつながらないことがつながることがある。その時、呼び出されるものは、弱者の声や目線」と指摘したように、異なるシステムや文化、歴史の接点に注目しようとする「かがく宇かん」プロジェクトでは、特定の強いものに引っ張られることなく、科学と芸術だけにとどまらない開かれた議論と創造の場を求めることが重要だと思われます。そのような意味でも、研究者や関係者の半数が女性であったこと、つまり、バランスよく女性のプレゼンスがあったことは当たり前であるべきだけれど、現状の日本では珍しいということは心に留めておきたいと思いました。
「アジア、あるいは日本で了解事項だと思っていることを、了解事項だと言って語らないということが、これから重要になってくるだろう」(藤幡正樹)
「勝ち負けではない相撲の見方がある」(岡﨑乾二郎)
「近代以前の中世の錬金術に最近は興味を持っている。両極なものをぶつけたり、反転させるような作品を制作テーマにしてきた」(白井美穂)
「日本の近代には、強者になるために弱者を支配しようとする論理をまかり通らせようとした人がいた」(ぱくきょんみ)
「軸はたくさんあって、それをどこに置くかによって弱者と強者、ヒエラルキーは変わってしまう」(前嵩西一馬)
ワークショップを通して、世界はさまざまな捕食関係であふれていることに気づかされました。度々キーワードとして出てきた捕食関係は、世界を成り立たせ、生きていくための一つのプロセスでもありますが、それによって世界を破綻させることもあるでしょう。
一方、松井茂さんは世界を説明するための普遍的な原理を目指した「結合術(アルス・コンビナトリア)」について言及しました。結合術がそもそもキリスト教の価値観のもとに、イスラム教を改宗させるための装置としての使われた経緯について疑問を抱き、「結合術における結合とは何か。実は結合していない原理がそこにあったのではないか」と問い直しました。結合術は歴史で繰り返されてきた概念であり、現代のコンピュータのシステム理論にまで影響を及ぼしたことを踏まえ、コンピュータのバージョンアップの度に起きる変化に注目したいと述べました。
そのことは、岡﨑ディレクターがキースピーチで提示した、ミトコンドリアのような異質な存在を抱えながら、文化がバージョンアップし継承されていくプロセスにも通じる問題提起と考えられます。