“ロボット”という言葉が発明されてから、来年2020年はちょうど100年を迎える。今回のシンポジウムは私にとって、そのような時代に、我々にとってロボットとは何だったのか、どうして生まれてきたのか、を一層考える機会であり、新しい知的枠組みを考える機会になると思う。ロボットとは何者かという問いと、テクノロジーは何をしてきたか、を考えることとは、ほぼ等価である。先端テクノロジーが成してきたことの少なくとも一側面を描写するならば、「不都合な差異・断絶の不可観測化」であったと私は考えている。
不都合な差異・断絶とは何か。
デカルト、ライプニッツ、ニュートン時代からの物理学的宇宙観は“平ら”で、時間は普遍であり、空間の関係性は基準が定められればガリレイ変換により宇宙の任意の点において相互の状態を関係づけることが可能であった。
しかしながら、よく知られているように、波動説、粒子説の狭間で揺れ動いた19世紀物理学の厄介者は、電磁波=光であった。すなわち、マクスウエルの理論に代表される電磁気学とニュートン力学は明らかに矛盾していた。この矛盾、断絶をつなぐ理論として登場したのがアインシュタインの相対論だった。アインシュタインが汎神論を支持していたことはよく知られている。アインシュタインが、かの理論に “Relativity=相対性” という言葉を敢えて用いたのは必然だろう。個々に固有の時空間そのものの状態を追跡するのでなく、相互作用の関係性にこそ、宇宙の構造の本質があると考えた。ニュートン以来の平坦な宇宙観を理論的に(サブセットとして)吸収し、個々の断絶した固有時空間から成る宇宙観を作り上げた。
「我々の時空間は予め断絶している。」それが近代物理学の描く宇宙観となった。
この100年ほどの間、この“新しい宇宙観” を説明する物理学的理論は、数多の厳しい理論的批判と実験的検証に晒され、最近になって漸く徐々に市民権を得てきた。(例えば、30年くらい前までは、時空間の歪みやブラックホールなどというものも、社会的統一見解としては「ブラックホールの存在は、証明されていません」であった。最近ではブラックホールの存在を疑う者はほぼ居ないであろう。)かくして、固有の時空間相互の関係性は、ローレンツ変換やらの難しい数理によって「接続」されることとなった。しかしながら、アインシュタインも量子論には懐疑的であったとされ、彼の理論だけでは、量子論との接続を見出すことはできなかった。すなわち、断絶を接続する理論どうしが接続できないという断絶の事態が起こった点が興味深い。
一方、テクノロジーは、達成すべき機能を設定し、「万人がその恩恵を享受する」という大義名分のもと、不都合な断絶を不可視、不可観測とすることを至上命題としてきた。断絶や相対性を、「誤差」、「不具合」などと呼んで徹底的に排除することこそが是とされてきた。勿論、不都合な断絶が「存在すること」を認めざるを得ない上に、非常に大きな脅威と捉えられているからこそ、全力で排除しようとする。けれども、そのような戦略の先に、この数十年、あるいは数年のスケールで、論理破綻が起こることは、少なくともテクノロジーに関わる者やテクノロジーと共に生きる者ならば、無自覚に鈍感では居られないはずである。今こそ、個々の時空間、固有の物理的・情報論的・心理的ダイナミクスを「不都合な断絶」と捉えるのではなく、「無数の接続の可能性」と捉え直し、テクノロジーの構造を再構築してみる時期なのではないだろうかと思う。
今回のシンポジウムの最中に話題となった、人間の認知活動における断絶と接続の事例は、これらの問題に解決の可能性を見出すことができるのではないかと期待する。少なくともテクノロジーの現場で、テレオペレーションなどの時空間の隔たりを意識が自由に往来しているように見える事象は、意識の働きに接続のメカニズムが選択的かつ可逆的に作動していると思われるからである。
まだ、漠としていてとりとめのない話であるが、視覚、聴覚、触覚、体性感覚、記憶の間では、環境との情報のやり取りの中で、知覚の可逆的変換を行うメカニズムが存在しているのかも知れない。そして、その選択的可逆変換が、断絶を縦横無尽に接続し、自己と他者、時空間の隔たりを超える「何か」に成り得るように思う。
そのようなメカニズムについての議論を今後、このプロジェクトでも考えていきたいと思う。