H・ベルクソンの本質的なモチーフは質的なものと量的なものとの区別にある。これは観念的なものと物質的なものという区別に先立つ、有効な区別である。ベルクソンは心身二元論などに典型な観念的なものと物質的なものとの区別に基づく思考法の行き詰まりの打開を模索しているのである。
このことを踏まえて、はじめに、ベルクソンの時間論と知覚論を具体的に確認しておこう。
まず、時間論は第一主著『時間と自由』に拠っている。空間は量的・数的なものであるが、時間は量・数ではない。時間を空間に還元してはいけないし、時間は空間と入れ替え不可能である。空間化された時間はにせの時間なのだ。それは生きられた時間を、死んだ時間(空間)に置きかえているのだ。たとえば、古代ギリシャ以来のアキレスと亀のパラドクスは、時間を量と見なすが故に起きるものである(ベルクソンはこのパラドクスを初めて解いた人である!)。また、第三主著『創造的進化』においてベルクソンは時間の存在意義(時間は存在しないと主張する哲学者もいる、典型はプラトンだ)を説いて、この世界というものがあらかじめ定められた真理がするすると展開するものではないのは、今この時点で未来はまだ決まっていないからだ、と語った。たとえて言うなら、機械式時計は、ゼンマイが一気にぱっとほどけることなく、振り子やテンプの働きによって順序よく徐々にほどけていくが、そして、そこには時間的な遅延(ディレイ)があるが、そのことによって、未来は決まっているという決定論を否定することができるのである。「未来が、現在の横に与えられているのではなく、現在に引き継いで起こる以外にないのは、未来が現在の瞬間において完全には決定されていないからだ。」(『創造的進化』第三章)
このことを私の専門対象のマンガで考えてみよう。すなわち、マンガが複数のコマから成り立っているのは、単にそれによって物語(描かれるべき真理)を効率的・効果的に描き出すため、などという理由からではない。絵画がそうであるように、物語(描かれるべき真理)は一枚絵でも十分に描き出しうるし、そのようにして一枚絵は、いつでも無時間化しうるのである。それに対してマンガは、コマに展開することで遅延を発生させている。言うなれば、マンガの物語は、真理(一気に解決)よりもサスペンス(宙吊り状態)を重視しているのである。そしてサンスペンスは退屈の気晴らしではなく、生きることとパラレルな、いわばその根源なのだ。
次に、知覚論については第二主著『物質と記憶』に拠っている。ベルクソンはI・カントを仮想敵と見て、カントの知覚(統覚)論を、五感に与えられた感覚所与を悟性や理性によって判断し表象を作り出すことだと見なした。いま風に表象をクオリア(感覚質)と呼び換えてもよかろうが、いずれにしてもつまり知覚とはフュレー(素材=質料)にエイドス(形式=形相)を与える作業である。そして行動は、知覚した後に行われる別の作業(実践)である。ベルクソンの考える知覚(インプット)はそうではなく、復路(アウトプット)としての行動を作り出すことまでを含めて知覚なのだと主張した。つまり、対象を知覚するとは、それが何であるか分かるといった知的判断ではなくて、それに対して私は何ができるかという行動の関係に入ることなのである。「私の身体を取り囲む諸対象は、それらに対する私の身体の可能的な作用を反映している。」(『物質と記憶』第一章)。
この知覚論は、現代思想の身体論の源流である。具体的にはフォン・ユクスキュルの環世界説、ハイデガーの用具連関や世界内存在、メルロ=ポンティの知覚の現象学などの先駆であり、他方で、W・ジェームスやC・S・パース等プラグラティズムを出自とするウィーナーの行動主義(フィードバック説)、ホワイトヘッドの抱握という概念、そしてギブソンのアフォーダンス理論などもまた同一の主題からの変奏曲である。その主題の淵源がベルクソンであり(つまりこれがベルクソン哲学を現代思想の源流であり、万能薬だと呼ぶゆえんである)、もしそれ以上さかのぼるとすれば、その一つひとつが表象作用において世界を映しだしていると言われるライプニッツのモナド論か、はたまた朱子学の先知後行説(知って後に行うことができる)に対する陽明学の知行合一説(知るとは行えることである)だとでも言えるだろう。
ベルクソンの知覚論が身体論的であり、あるいは身体連続=延長的であるのに対して、カント的な表象論は、超身体論的、あるいは身体隔絶的であり、つまりは観念的である。
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さて、話題はすこし飛ぶ。
テレビや映画などを見ていて、知っている場所や人物が映ると妙に嬉しくなったりすることはないだろうか。あったとして、それはなぜだろうか。それはすでに解明され、○○効果とかネーミングがなされているのだろうか(職場の隣の研究室の心理学の先生に聞いてみたが、どうやら話題にもなっていないらしい)。一般意味論というのを考えたA・コージブスキーは「地図は現地ではない」という有名な言葉を残している。抽象化された言葉(一般観念)ではなく、個別の実在(純粋経験)を重視せよということであろう。ただし、知ってる場所がテレビで……という問題を考える時、逆に言えるのは「地図は現地よりおもしろい」ということである。(現地は持続としての生きられた質的時間であるのに対し、地図は時間を対象化・空間化しているのである)。
ちなみに、ドゥルーズ『差異と反復』などでの「表象」批判も、この文脈で考え直していけるだろう。「表象」批判の本質は、あるものを何か別のもので代理してしまうあり方を批判するということである。あるもの(個物)の固有性を大切にしなければならない。それを別のなにか、(言葉であれ、図像であれ、なにか)別の記号で置きかえる暴力性・非合理性への批判であるが、おそらくここにも、質的なものと量的なもののすり替えが介在している。
さて、しかし、だ。「表象」はおもしろいのである。パスカルの『パンセ』には「絵画とは、なんとむなしいものだろう。原物には感心しないのに、それに似ているといって感心されるとは。」(B134・前田陽一訳)という有名な格言がある。いくら虚しいとバカにされても、実際におもしろいのだから仕方がないだろう。
本題に戻ろう。知ってる場所がテレビで……という問題を考える時にまず参考になるのが、デジャヴュである。《déjà-vu》(既視感)とは、手頃な英語の辞書で間に合わせてしまうが(案外ちゃんと書いてある)、 「(1)(心理学)既視感《初めての経験なのに、かつて経験した感じがするような錯覚;記憶錯誤(paramnesia)の一種》。(2)(略式)ある事をしばしば経験したという感じ。」(『ジーニアス英和辞典』第四版)である。
ベルクソン『物質と記憶』の第一章でもこのデジャヴュは話題になっているが、(1)の意味を含みつつもそれに限定されず、意味は広く取られており、「初めての経験なのに」という部分を省いて、純粋に「かつて見たことがある」という再認の感覚を扱うものである。(2)の意味である。このベルクソンのスタンスに一理あるのは、再認と初見との違いについて言えば、そもそもどんな対象であっても、それを再認と見ることも初見と見ることもできるからである。「こんにちは!テアイテトス」と挨拶するとき、テアイテトスはじつはもはや昨日の彼ではないのだから。
ベルクソンは(2)のデジャヴュを可能にするのは記憶力であると認めているが、これは言うまでもないだろう。他方、(1)のデジャヴュの原因を、見られる対象と見る枠組みとの齟齬に由来する、と考えたようである。齟齬とは、時間的な齟齬である。つまり、見られる対象は常に現在の対象であるにも拘わらず、時間的に齟齬する過去の枠組みによって見てしまうがために、初見でありながらも過去に既に見たと感じる、というわけである。
さて、この時間的な齟齬を、空間的な齟齬へとスライドさせたとき、知っている場所が映ると嬉しくなる云々が成立するのではないだろうか、というのが私の推察である。このことを掘り下げてみよう。
対象それ自体とそれが置かれる枠組みとは、本来は空間的に一致しているはずである。たとえば雪の科学館は加賀市の柴山潟のほとりまで行かないと見られない。私の身体を柴山潟まで運べば雪の科学館も見える。ところが、テレビとは、文字通り(テレ=遠い、ヴィジョン=視覚)、私の身体とは全く別に在る対象を見せる道具である。テレビという枠組みは、私の通常の身体性を超えた視覚を実現してしまう道具である。この人間の身体感覚を超えた視覚に、私たちは嬉しさを感じるのではないだろうか。普段私が見慣れている場所や人物は、私の身体の延長上という枠組み内で見られている。また、私がテレビでしか見たことがないような芸能人や名所は、私の身体延長上にはなく、つまりはテレビなどでしか見たことがないものであるが、それをテレビで見るぶんには普通のこととして慣れている。さて、有名人や名所を旅行先などで実見するのは延長された身体であるし、有名人や名所をテレビで見るのも通例化された身体経験である。それに対して、見慣れた場所や人をテレビで見るのは、隔絶された仮想的で超越的な身体の行使である。
この感覚・体験を、デジャヴュを真似て、au-delà vu(オーデラヴュ)と名付けることにしたいと思う。(au-delàは英語に直すと beyond である)。訳は、隔視感(かくしかん)としよう。身体では超えがたい壁を隔てて、対象を視る感覚である。
ここまで来れば、嬉しいかどうかは、本質的にはあまり関係がないことも分かる。場合によっては、既視感と同じように、薄気味悪い感覚のはずである。ともかく、隔視感は通常の空間的身体性を逸脱・超越して実現される視覚(知覚)なのである。対して、通常の時間的身体性を逸脱して実現される視覚(知覚)が既視感なのである。
さて、(映画やテレビなど)近代のメディアの進展がこの隔視感を実現しているものだということは納得できるだろう。ベルクソンやドゥルーズが、「気体状の知覚」と呼んだものにしても、岡﨑乾二郎が『抽象の力』で空撮について触れたことも、これらの近代のメディアの進展を言うものであろう。
しかも、じつはこれは近代的なメディアに限定されない、絵画を含む、「表象」的な表現形式の本質的なあり方であることにも、すぐに気づかされるだろう。地図は現地よりおもしろい、の理由がここにある。
そして、ベルクソンが嫌った質的なものの量的なものへの還元こそが、身体を超える方法でもあるのだということにも気づかされるのである。そして、それはある意味、人間の条件でもあっただろう。浅田彰『構造と力』第一章の冒頭文「はじめにEXCÈS(過剰)があった。」とは、このことを言っていたのである。EXCÈSとは、「ズレである。何からのズレか?生きた自然(ピュシス)の織りなす有機的な秩序からの、である。」(同書)
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ちなみに、2019年3月16日豊田市美術館主催により行われた岡﨑乾二郎×浅田彰の対談「構造と力と抽象の力」を聞くにあたって私は『構造と力』も読み直したのだが、両著が最接近した部分を『構造と力』から3つ抜き出してみよう。〔 〕は私の補足である。
(1)p.51
確かに、ピュシスにおいては、生のサンス〔意味=方向〕を担ったゲシュタルトを媒介とする、相互的・円環的統一を見ることができた。けれども、人間の場合、ゲシュタルトの世界は錯乱を孕んだイマージュの世界―想像界に転化してしまっている。そこでの相互性は極端な不調和を特徴としていたのではなかったか? ゲシュタルトを媒介とする相互性の例として、ある種の動物の親子の給餌行動や、ラカンが挙げている雌雄の交尾行動を考えることができるだろう。一方が相手の形態や動作に触発されて特定の行動をとると、他方がそれに触発されて反応する。対の関係は、ここでは極めて対称的・即時的である。一方、イマージュを媒介とする相互性の典型は、言うまでもなく、幼児と鏡―そして鏡像としての他者たち―との関係である。〔身体的・有機体的なゲシュタルトに対する、非有機体的なイマージュ。それこそが逸脱=過剰、EXCÈSである。本来なら感情移入=質的・有機体的=モノ的であり、抽象は量的・観念的であるはずのところ、岡﨑は抽象は唯物論だと指摘した。それは、人間におけるこの逸脱が介在するからであろう〕
(2)p.159~160
〔構造主義における「力の事後性」。しかし、力は目的でなく、始原に在るのではないか。とした上で、次の引用文がある。唯物論への言及である〕力が見出されるとすれば、それは、そのようなテロスにおいてではなく、端緒においてではなかったか。兄弟間の矛盾が父の権力を帰結したのではない。父の権力が兄弟に先立つ物として存在したのである。こうして、我々は、端的に垂直の力の運動から出発して論理を展開する必要を見出すことになる。
マルクス、ニーチェ、フロイトが構造主義以降あらためて問題になるとすれば、それは、彼らが今述べた意味における《力》の思考を展開した―あるいは可能性として内包している―からに他ならない。ここで、それを唯物論と呼び、《かたち》を始原とする思考を観念論と呼ぶと言えば、蛇足になるだろう。(3)p.28
〔《かたち》と《もの》つまり観念論と唯物論との対比。アリストテレス以来の二分法を表象の発生に位置づけている。なお、私はデュナミスとエネルゲイアとの相克としてマンガ論を構築している〕実際、アリストテレス以来の《質料―形相》図式を現代化して言えば、物質=エネルギーが《もの》だとすると情報は《もの》の《かたち》、ゲシュタルト、空間的・時間的パターンなのであり、従って、生きることとは無秩序へと拡散していく《もの》の世界を《かたち》づけていくことに他ならず、その結果として環境は様々な《かたち》の織りなす生きた絵画、無機的世界を《地》とする生の《図》となるのである。
『構造と力』の試みは、バタイユ、ラカン、アルチュセールをドゥルーズ=ガタリで超えていく、というものであった。ただしそれは世界の左翼運動退潮後まだまだかなり早い段階での予言であって、30年前のこの予言は、今振り返ってみるに結局誰も果たし得なかったように思われる。が、やり直しはまだ出来るだろう。ラカンは私はよく知らないが、バタイユに関しては、唯物論をそこから引き出しなおすことができるかもしれない。アルチュセールについては、浅田彰自身に「アルチュセール派イデオロギー論の再検討」という明快な論文があり、今私はそれを読み直している。ベルクソンの最終的なモチーフは自由の保証と実現にあるが、私はいつも自由はほんとうに自由なのか、自由だと思わされているだけではないのか、と疑問を抱いてきた。アルチュセールのイデオロギー論には次のようなモチーフがあるのだそうだ。これも引用しておこう。
さて、アルチュセールはこの国家装置の働きをふたつの機能に分けて分析する。暴力的な機能とイデオロギー的な機能である。最も単純化して言えば、この両者はそれぞれ強制と説得に対応するものである。すべての国家装置はこの両者を併せもっているが、そのうち暴力的な機能が圧倒的なものを国家の抑圧装置、イデオロギー的な機能が圧倒的なものを国家のイデオロギー装置と呼ぶ。
つまり、強制や抑圧に対抗すべき「自由」には、「説得」という双子の兄弟がいるのである。
なお、さらに同論文には、搾取階級と非搾取階級という「分裂と矛盾にもかかわらず社会構成体の統一と生産諸条件の再生産を保障する特別な手段が不可欠になる。それこそが国家に他ならない。」とまで書いてある。様々な矛盾を飲みこむ統一体である。こうした、矛盾をはらみ、しかし止揚されることなくそのまま再生産を続けて行くシステムは国家以外にも、あらゆるところに遍在しているではないか。再認と初見とを含む「表象」も「知覚」も、あるいは「自由」と「説得」もまた。そして「造形」などはエネルゲイアとデュナミスの相克として、いうまでもなく。地図と現地もそうだし、さらに、断絶と接続というモチーフも、だろう。つまり、質的なものと量的なものは、ベルクソンの期待に反して、ふたたび等価な対立構造に置かれてしまう。ベルクソンだけを万能薬だと思うのは、早計だったようだ。