カガクとクウカン/ときどきクモリ
2019年1月26日(土)、「中谷宇吉郎 雪の科学館」にて非公開の研究会。
翌1月27日(日)、片山津地区会館 テリーナホールにて公開研究会。
雪の科学館では、雪の立体分子構造や、雪の結晶の(平面図だけではなく)側面図も見ることができ、雪の結晶はハイブリッドな構造物(例えば、それぞれ形の異なる1階平面と2階平面とを1本の柱がつないで2層構造を形成しているなど)であることが確認できた。
異なる論理の形が組み合わさった異形の雪の結晶は、動物でいうところの奇形としてみなされ、美しくないと排除されることが多かった。きれいに対称形をなす六角形状の構造(六花)が正統な雪の結晶の形であると見なされてきた。
しかし、翌日の公開研究会において、ディレクターの岡﨑氏は冒頭のトークで、奇形だとみなされてきたハイブリッドな構造は奇形ではなく、むしろそれは常態であり、その形が生み出されたプロセスの必然性を研究するのが科学であると宇吉郎博士は考えていたと述べた。
異なる論理の形の組み合わさり方にこそ天からの情報が埋め込まれており、それを解析することで、その雪がどのような経緯をたどって天空から地上に降りてきたか、固有の歴史が分かるというのである。
形とプロセス。異なる論理による切断と接続。切れたりつながったりすることの必然性とそのプロセスを通して発現する個々の様式の生起確率。これらを考えることが、「かがく宇かん」研究員としての研究テーマだと思って、自分の持ち場に戻った。
そして、その3週間後に、、、、、
だんだんたんぼに夜明かしカエル
2019年2月17日(日)、神戸のジーベックホールにて公演。
2019年3月9日(土)、10日(日)、東京の北千住BUoYにて公演。
筆者は、事務局スタッフとして、ダンス公演「だんだんたんぼに夜明かしカエル」(主催:文化庁、一般財団法人たんぽぽの家)の制作現場に関わった。
ぐるり山なみ棚田にそそぐ陽。 真昼の泥の中でくっつき息をするカエル達。陽が傾くたそがれ時、うたがはじまる。 祈っているのかもしれない。つぶやいているのかもしれない。闇が深まっていく、賑やかになっていく、夜が明けていく。棚田には、水が巡っている。(公演サイトhttp://tanpoponoye.org/news/news-hana/2019/01/00088136/より抜粋)
夜明けから夜明けまでのカエルの物語をあらわした本作は、ダンス公演にしては舞台上でたくさんの言葉が交わされる。かといって舞踊劇でよくみられるようなセリフは与えられていない。咽頭を通して空中に発せられた振動波が、果たして息なのか音なのか声なのか言語なのか、本作においては線引きするのが難しい。
演出・振付を依頼したジャワ舞踊家、佐久間新のこれまでのダンスワークショップでは、雪の科学館での非公開研究会の際に紹介したペットボトルダンスや二人場織で鏡文字を描くブラッシュダンスなど、パフォーマンスの形の美しさを追求するのではなく、その形が出てくるプロセスにこそ着目して、彼が独自に編み出した手法を中心に取り組まれてきた。
佐久間のワークショップでは、輝く断片(ダンスの素)を発見できる。しかし、その断片をただ寄せ集めただけでは作品にはならないということを、制作過程でいやというほど味わった。作品とは何かということを考えざるをえなかった。
一方でまた、自分たちが普段の場面でおこなっていることを、舞台に持ち込もうとしても、ままならないことが多かった。例えば、水以外にも、煙や湯気と踊る仕掛けを取り入れたかったが、劇場でそれらを使用するためには、消防法など制度的に乗り越えなければならない制約が多く、水、煙、湯気のプランは断念することになった。
ところが、2月の初演後の話し合いのなか、偶然の流れで、たくさん人間を出すことで煙幕をはるという「人間スモーク」のアイデアが佐久間におりてきた。3月の東京公演では、メインキャストが舞台にすでに登場しているなかで、客席後ろからそれぞれ固有の楽器をもった音楽隊が「人間スモーク」として大勢わさわさと出てきて、いったいこれから何が起こるのか、しばし観客の視界を攪乱させる(=煙に巻く)ことをもくろんだシーンを構築できた。
メインキャストのシーンがようやく形になってきたため、挑戦できた事柄だといえる。
パフォーミングアーツは上演時間中に起こるプロセスを経験する芸術であると思う。しかし、作品としての体(形)を成すプロセス(作品時間)を成立させるためには、さらにその前に、稽古や議論のプロセスを必要とする。つまり、作品でどんな出来事が起こったかを問うだけでなく、その出来事が起こる場とは何か、その出来事の生起を可能にする人的物的環境をどうやって整えたかということも重要な考察ポイントになるだろう。とりわけ、それぞれ固有の社会的排除や生きづらさの経験をもつ者たちが個々に集まって創作する現場では、自由に切れたりつながったりできる場が保証されることが大切であると思われる。
結晶化するプロセスとしてのパフォーミングアーツとは、創作の場が外部に開かれ、常に途上の形態であること、流動的であることを意味する。
結晶という言葉には、固まってしまうというイメージがつきまとう。しかし雪の結晶のことを思い起こせば、そうではないことがすぐにわかる。雪は、自身をとりまく場に開かれている。水をめぐる大きな循環プロセスの中のひとつの形態である。雪は、天空や地上で溶けて水となり、ふたたび水蒸気となって天にのぼる。塵と一緒に水や氷の粒となり雲を構成し、新しい場の条件に応じて新たな組み合わさり方で雪として結晶化し、また天から舞い降りる。
宇吉郎博士は天から舞い降りてきた雪の結晶の形を解析し、そしてさらに、世界で最初に人工雪を作り出すことに成功し、実験を重ねることで雪の結晶を生成せしめる天空の場の温度や湿度の状況をダイヤグラムに表した。
水が流れる(banyu mili)。ジャワ舞踊の理想の形態は、水が流れるように踊ることだという。佐久間は、このジャワ舞踊のエッセンスを大切にしながらも、たんぽぽの家の障害のあるメンバーたちと独自のパフォーマンスを追及し、輝く断片(ダンスの素)を私たちに提示してきた。それは一度でもそれを目撃してしまうとその場から離れがたい魅力を有する。その場でしか起こらない儚い瞬間を共有することを意味する。
これまで佐久間とたんぽぽの家が見出してきたパフォーマンスの魅力を作品として提示しようとするとき、先に述べたようになかなか思い通りに進まなかった。これは、雪の結晶に魅せられてきた宇吉郎博士が、初めて人工雪の生成を試みようとしたときに遭遇したであろう様々な苦労と、もしかしたら相同の構造があるのではないだろうか。筆者はそう考えるようにした。自然を前にした科学者と同じ態度が、アーチストと呼ばれる演出家兼舞踊家(そして彼を支える周りの者たち)にも求められている。私たちは直接パフォーマンスの形を作り出すことはできない。私たちができるのは、音や光の対流をおこし、身体の振動をとおしておのずから形が生まれ出るように場を整えることだけである。
果たして「だんだんたんぼに夜明かしカエル」はどのような形になったのか。完成形ではない、常に途上にある形。その形が生み出されたプロセスの必然性を研究したいと思う。