もう二度と会わない人に「はじめまして」と言っても意味はないのかもしれない、二度目はないのだから。「はじめて以外、お目にかかりません」。たとえば誰か初対面の人に、そう言ってみるとする。そう言ったなら、「なぜそう言えるのか」と相手に突き返されることもあるはずだ。それに対しては、こう言い返すこともできる。「なぜ、はじめまして、と言うことができるのか? そもそもなぜ、お目にかかるのがはじめてだと断じることができるのか?」と。
「人がいない場合でも、水が流れることがあります」。そうトイレにキャプションが貼られていることがある。人がいない場合の情報を、人がいる場合に丁寧に知らせてくれているわけだ。通常、映像作品の展示では、映像が実際に見られているか否かにかかわらず、上映され続けている。上映し続けるという状態を維持することで、映像をまるでモノのように、ある特定の場所に設置できるものとして取り扱うことができるからだ。展示された映像は、誰にとっても関心を惹かないであろう、人のいないときのトイレと似て、あるいは川のような絶えまない一方向的な流れとして、そこに留まる。
映像を見ることとは、この一方向的な流れに居合わせることであると、ひとまずは言えるだろう。だがもしも映像が、見ることと関係なく上映されるのではなく、上映されている時間とは関係なく見られるとしたら、それはどのような形態をとるのだろうか。たとえば、上映の時間に逆流するように見られる映像であったり、(15分間見ていればそのとき見えるのは15分間上映されたものであるといったような)通常の上映時間と視聴時間の一対一対応の関係から逸脱する映像もあり得るのではないか。映像は、絵画や彫刻などと違って比較的、上映されているものと見ているものの一致が疑われない。要するに、一度見たらすべて見たような気になる。しかしこの一致はいったい何に裏付けられているのか。
ヘラクレイトスは「同じ川に二度と足を踏み入れることはできない」と言った。ヘラクレイトスの弟子を自任したクラチュロスは、さらに師の言明を徹底すると、われわれは「一度も同じ川に足を踏み入れることはできない」ということになると述べ、それ以上何事も語ることができなくなって沈黙した。そうして後はただ、わずかにピクピクと指の先を動かすのみであった、と伝えられている。川に足を踏み入れることができると信じる者にとっては、映像を見ることはあまりにもたやすい水遊びにすぎぬだろう。しかしひとたび、足を踏み入れたとしても踏み入れたことには決してならない川として、上映時間が立ち上がったとするならばどうだろうか? おそらくそれは、絶えまない一方向的な流れが激流となってわれわれを呑み込む、というクリシェを通り越して、むしろ流れのない流れのようなものとして感知されるのではないだろうか。
街の中で大勢の人々を見かける。大抵の人はその一度のみ見かけただけで、もう二度と見ることはない。というより、仮にもう一度その人を見たとしても、見たかどうかをほとんど覚えていないだろう。しかし、長い時間を経れば、もう一度くらいはその人を見かけるかもしれないではないか、だからその顔を覚えておこう――そう心がけて、街中の人々を眺める者もいるかもしれない。
この場合の、一回的であるということと、ある人生が一回的である、というときの「一回性」とを比較してみる。分け隔てない、いわば無駄な一回性と、そうではない、かけがえのなさとセットになった一回性とを、われわれは決して間違えることなく、つねにはっきりと峻別している。そのヒエラルキーとはいったい何なのか? ある出来事が人生において決定的だったという一回性は、それ以後の人生のすべてを決めているという波及性、継続性がある。あたかも以後の全行動がそれに従っていて、それに振付られているかのように。対して、街中で見かけた顔の一回性はそうした波及性がない、あるいは継続性をもちたくてももち得ない。しかしこのわたしの人生の一回性を、街中で見かける顔の一回性と同等のものとみなすことも可能なのではなかろうか。一度きりであることを印す一度きりしか使われない印など、どこにもないのだ。
すべてが一回的である。そう言いたくなる局面が、確かにある。しかし「すべてが一回的である」という言明を一端認めれば「ある出来事が一回的である」という別の認識が侵食され、解体されはしないだろうか。前者を全称命題、後者を単称命題とした場合、両者の真偽はどう折り合いをつけられるのか。希少ということではなく、つまり稀にしか起きない奇跡としてでなく、「一回性」なるものを捉えることは可能だろうか。何度も一度きり出会っているから、一度きりであることが忘れられてしまう。幾度となく同じように、いつでも一度きり。逆に、街でたまたま見かける顔が、いつもはじめての見知らぬ顔でなく、つねに幾度か見た顔であるとするならば、知らぬ顔を一度きり見たということが、何度も一度きり見ることとは異なる出来事として立ち上がるのだろうか。何かを価値づける一回性、あるいは規範となりうる一回性に対して、ただそうであるだけの、事実としての一回性、というものがある。
「今日は2018年2月17日の初演です」という発言は、「2018年2月17日」自体に再演があるかのように錯覚させる。あるいは、「今日は第一回の2018年2月17日です」ないし「今日は一度目の2018年2月17日です」という発言もまた、「2018年2月17日」が複数回あるかのように感じさせてしまう。これは「一度」や「一回」という語の使い間違いなのだろうか。不思議なことに、一度しかないものに「一度目」と付けると、それは「一度きりのもの」ではなくなるのだ。
事の順序として、たとえば第二次世界大戦が起こるまでは、そもそも第一次世界大戦は「第一次」世界大戦とは呼ばれていなかったはずだ。「第一次」と呼んでいるということは、すでに「第二次」が起きたことが確定的であるような場合だろう。そしてひとたび実際に第二次世界大戦が起きてからは、先の大戦が「第一次世界大戦」と名指されただけではなく、「第三次世界大戦」というものの勃発可能性が立ち上がり、それを畏怖しながら夢想する者が続出することになった。ともあれ今問題なのは、「第二次」と呼べる事態が実際には起こっていないにもかかわらず、何かを「第一次」と捉えることで、半ば自動的に「第二次」が要請されてしまうケースのことである。これは、われわれが出来事を認識する形式に関する出来事である。
「1」という数が運用される際に、数えられる1と数えられない1とはつねに混同される可能性を孕んでいる。しかしそもそも「一度」と「一度目」とは、指し示されている出来事の次元が根本的に異なるのではないか。ほんとうに一回であることは一回ではない。それは「回」という単位を超えている。それでは、「「これを見たのは二度目である」という経験そのものは一度目だ」、もしくは「「これを見たのは二度目である」ということは一度しかない」という考えはどうだろうか。これらの考えがナンセンスかどうかは、「すべてが一回的である」という考えがナンセンスかどうかという問題と関係する。
練習と準備はある意味で対照的な概念である。練習で想定されている「本番」は反復可能なことが前提であるのに対し、準備で想定されている「本番」は反復不可能なことが前提になっているからだ。
練習とは、まだできていない何かをできるようにすること。そのために、できないなりにそれを繰り返しやってみて、「できる」という地点まで到達することを目指す。その「できる」は、「たまたまできてしまった」ではなくて、いつでも何度でもできるようにすることまで含んでいる。そして定められた期日としての本番で、それを高確率でできなくてはならないというわけだ(練習の究極目標は、練習と本番の区別をなくすことなのかもしれない)。だが反面、ひとたびできるようになった途端に、それ以前のできていない状態は失われるということがある。たとえば一度自転車に乗れるようになったら、乗れなくなるのは極めて困難である。それでは、自転車に乗れなくなる練習があるとすれば、それはどういうものだろうか。
他方、準備には練習のような「できるようになるために繰り返す」という側面がない。準備とは、本番と同様のことを事前にしない(あるいは原理的にできない)が、本番で十全にそれが行えるように周辺を整えることである。たとえば、旅行に行く準備はできても、旅行に行く練習はできない。練習のために旅行に行けば、それは練習ではなく本番になってしまう。下見するということもあるけれど、それも旅行である。それでは、旅行とは逆に、練習はできても準備することができないものとは何か。練習より準備の方がより包括的な概念だとすれば、それはなぜか。備えておくことで完全な不意打ちを避けようとするわけだから、想定外のことを想定しようとする欲望が準備には含まれているはずだが、「後はなるようになる」という放り出しの態度もまた、それを特徴づけている。
一度しかないことが映像なのか。それとも、幾度となく繰り返すことが映像なのか。一度しかないことを幾度となく繰り返し見ることができるものこそが映像だとすると、幾度となく繰り返し起こることを一度しか見ないと決めたとき、それは映像に近づくだろうか?
「ゴジラの足跡」というものが実在する。それは映画『ゴジラ』に出てくる、架空だが有名な例の怪獣の生痕のことではない。観音崎のたたら浜にかつてあった遊具「ゴジラのすべり台」の跡地に作られたある架空の、しかし特定の具体的な足跡のことを指す。時系列順に述べるなら、ゴジラの映画に因んで作られたゴジラのすべり台が取り壊されて、その跡地にゴジラの映画に因んでゴジラの足跡が作られた、というのが事の経緯だ。これは異様にフィクショナルな事態ではないか。「ゴジラという架空の怪獣の生痕」というだけでもフィクショナルなのだが、「架空の生物」というフィクションと「痕跡の捏造」というフィクションが掛け合わされただけであったなら、そこまで異様には感じなかっただろう。「ゴジラの足跡」そのものはわざわざ見に行っても肩すかしを食らうような、しょうもない模造品にすぎない。この直接は知覚できない異様さは何に由来しているのか。それはコンテクスチュアルなキャプションを通してしか浮かび上がらないプロセスにまつわる異様さであり、先に述べた事の経緯に由来している。
ゴジラの代わりに、ゴジラに似せたすべり台。これはもちろんフェイクだ。しかしそこがすべり台の跡地であることは現実なはずである。その痕跡の代わりに、ゴジラの足跡に似せた足跡。すなわち痕跡性を覆い隠す痕跡の擬態。二度目の、二重のフェイクと言いたいところだが、ゴジラ自体が架空の存在であるから、それは正確には三度目のフェイクということになるだろう。だが、ここで一番フィクショナルな存在と化しているのは、あるいは考えようによっては一番リアルな存在と化しているのは、むしろすべり台だ。たとえばフェイクのゴジラの像を建て、その像の跡にフェイクの足跡を作ったというほうがフェイクとしての一貫性があり、実際に起こるだろうこととしてわれわれは想像しやすい。けれど実際には、そのあいだになぜか「すべり台」という段階がある。その時間的な貫通を通じてゴジラはゴジラであり続け、すべり台のほうが束の間の夾雑物のようになっている。あたかも、実在しないはずのゴジラが、自らの足跡を残す前に、一端すべり台にならなければならなかったかのようだ。なぜわざわざモニュメンタルな足跡を作らねばならなかったのかという問いは、そもそもなぜそこに存在したのがすべり台でなければならなかったのかという問いに半ば変容している。断ち切られたトカゲの尻尾のような存在感を放ちながら、諸々の欲望の調停ないし辻褄合わせのはての、しかしどうしようもなく余分な、かつて存在したこと自体が申し訳なさそうな夾雑物として、それは不在している。
「記事の確かさを確かめるために、同じ新聞を何部も買ってきて読み比べる」(ウィトゲンシュタイン)。これは一見とてもナンセンスな行為であるように思える。しかしそれがナンセンスではない状況があるとすれば、どのような状況なのか。われわれは普通、直接事実を検証できないという条件下である記事の確かさを調べるのならば、同じ記事の載っている複数の異なる新聞をいくつか買ってきて、それを読み比べるということをする。「A新聞ではこう言っているが、B新聞ではこう言っている」というように、その共通点と相違点を読むわけだ。そのことで情報を精査し、事実に近づこうとする(だが、事実との結びつきの強固さは、はたしてイコール記事の確かさなのか)。しかし同じ新聞を何部も読み比べる場合、大抵記事の内容は変わらないから、記事の確かさを見るというより、誤字や印刷ミスなどを見ることになる。つまりそこでは記事の内容というものがごっそり抜けてしまう。
あるいは、新聞を何部も買わずに一部だけ買い、そのなかのある記事の確かさを確かめるために何度も読むとする。その場合比べられるのは、先に読んだ記事(の記憶)と今読んでいる記事との違いである。確かめは記事ではなく読む側の認識能力へと向かってしまう。この確認行為と何部も読み比べる確認行為に違いはあるだろうか。いささかも記事自体についての確かさへと前進しないという意味では、それらに違いはない。では、複数の新聞を買って同じ記事を探して読み比べる場合とその二つの場合とは、違うのだろうか? もちろん違う。なぜなら前者においては、複数の記事を「違う新聞→けれど→同じ記事」とみなした時点で、すでに記事以上のレベルにある事実Xが成立してしまっているから。
ウィトゲンシュタインの例は、そうした差異を前提とした読み比べができず、事実という次元が立ち上がらない状況、それ以上何も比較し得ない領域に踏み込んだものだった。つまり、繰り返し見たり読んだりすることが、何ら情報の更新もしくは蓄積にはならず、それでもなお比べるという(形骸化した)行為を繰り返してしまう、と。ちっとも変わらない記事内容を、「同じだ」「同じだ」「同じだ」と同じように指し続けることで、確認に失敗し続ける。行き止まりだからこそ反復せざるを得ない。しかしこの局面において、確かめの対象は、記事が指し示しているだろう事実との結びつきではなく、「この新聞記事がまさに今ここに存在している」という端的な事実のほうに移行しているかのようにみえる。
「比べることが不可能なことを比べる」という局面をもつような、何らかの確認行為。通常、確認行為には、すでに確認するまでもなく確か(事実)とされていることがある。けれども、不確かさを除去しようとする行為がかえって、確認するまでもなく確かなことまで不確かな領域に追いやることがある。それはおそらく事実消失後に特有の、事実確認的な行為のパフォーマティビティである。
熱いそばつゆをくぐらせた一口大のそばを客のお椀に入れ、それを食べ終わるたびに、給仕がそのお椀に次々とそばを入れ続け、客が満腹になりふたを閉めるまでそれを続けるというスタイルで食すのが、わんこそばというものである。あなたがわんこそばを食べ終えた瞬間、カラになったはずの椀には、元通り満杯のそばが入っている。あなたのお腹はどんどん膨れていくのに、目の前のわんこそばが満杯なのは相変わらずだ。このわんこそばのプロセスから、そばを椀に運ぶ給仕と、箸でそばを口に運ぶあなたの行為を差し引いて、減ることも乾くこともなく静止している、あなたの眼前にあるつねに熱々のそばと、徐々に膨らんでいくあなたの胃袋、という二つの時間経過だけを抽出したとしよう。この二つの並列的な時間の流れはいったい何なのか? 椀の中身に変化の痕跡は何もなく、したがって「いつのまにか元に戻っている」ということすらなかったことになる。あるとすれば、無関係な二つの系例のそれぞれがもたらす、いわば「いつのまにかあり続けている」という、持続と瞬時的な把握との不均衡による奇妙に鈍磨した感覚がある、とは言えるかもしれない。給仕と客であるあなたの行為が何も把握されない場合、あなたは何も変わらずにあり続ける椀の中のそばと、許容量を超えて不可逆的に漸次満たされていく己の胃袋の具合とを知覚しながら、それを因果的に一つの系列として結び合わせることができるだろうか。