このテキストは、水戸芸術館「霧の抵抗 中谷芙二子」展(2018年10月27日~ 2019年1月20日)に際して刊行されるカタログ(2018年11月30日発売)のために執筆された。同時に掲載される「あふるるもの」を補足する論である。カタログ販売に先立って公開する。(「霧の抵抗 1」と「霧の抵抗 2」に分けて掲載)
中谷芙二子の仕事を回顧する展覧会をしようとするときに予想される困難があり、それは芙二子さんが自身を主題にされることを極端に回避しようとする方である(笑)ことにあります。けれどこの態度は、中谷芙二子さんの人柄にだけ由来すると考えるべきではありません。スーザン・ソンタグの言葉で言えば、それはひとつの「ラディカルな意志のスタイル」であると言うべきです。
中谷芙二子の芸術制作のキャリアは50年代から始まります。芙二子さんの仕事でもっとも知られた「霧」は60年代の終わりから、次いで映像作品は70年代から本格的に制作が始まりました。60年代末から70年代は芸術に限らず、大きな意味で進歩史観が破綻し失速した時代として回顧されています。文化においても政治的にも70年代は1960年代に爆発的に展開したカウンター・カルチャーが終息し袋小路に入った、いわば文化が閉塞、内閉してしまった時代だと見なされています。しかし、これは60年代まで展開してきたと自負する歴史記述の内側から見た感想にすぎないかもしれません。言い換えればそれまでの歴史記述によっては観測できず、記述できない変化、展開が70年代には起こっていた、とも考えることができます。以下、中谷芙二子の仕事を理解するための補助線として、60年代から80年代がどのような時代だったかを振り返ってみましょう。
たとえば日本で70年代が実際にいかなる時代だったかは、その時代の文化を特徴づけた代表的な事象を見ていけば明らかです。分水嶺は1976年あたりにありました。1972年に沖縄が復帰します。1975年に沖縄国際海洋博覧会が開かれますが、1976年頭にはロッキード事件が起こります。1975年以降、音楽、建築、映像、文学においては、沖縄こそが文化変動の震源でした。音楽でいえば喜納昌吉の「ハイサイおじさん」の爆発的ヒットがあり、それに応答するように細野晴臣の「トロピカル・ダンディー」「泰安洋行」「はらいそ」に至る流れが生まれた。復帰と前後して東松照明が沖縄に移住し、大島渚などが沖縄で映画(『夏の妹』)を制作する。また復帰経済も原因にしていましたが、象設計集団の「今帰仁村中央公民館」続いて「名護市庁舎」などに代表されるように、沖縄は一躍、近代建築のインターナショナリズムを批判し対抗する建築言語が実践される最前線になってきてもいました。
が、沖縄の出現は、むしろ沖縄のみではなく、日本全体に存在する沖縄的状況がはっきり自覚されたという意味で重要だったのです。すなわち、日本全体がいまだ占領体制、占領文化の下にあること。同時に、単一に見えた国家の輪郭がほころび、均質な文化として閉じていると思われた内部の文化のあらゆるところに穴が空き、決して通約できない無数の別の文化が顔を覗かせていることが再発見されました。ポストコロニアルな状況としての日本が自覚されたと言ってもいいでしょう。当時言われた「多国籍性」とは、こうした通約不可能、非対称的な文化の隣接を意味していて、決して多文化が並存しているという呑気なものでは必ずしもありませんでした。ゆえに、細野晴臣が福生で録音した「HOSONO HOUSE」あるいは村上龍の『限りなく透明に近いブルー』にしても、また山口百恵の「横須賀ストーリー」、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」にしても、いわば基地音楽であり基地文学でした。あるいは当時カリスマになっていた植草甚一の博学にせよ、矢野顕子の「JAPANESE GIRL」にしても、これは複数の文化が混じり合う境界としての場所を自覚したところから生まれた仕事だったのです。そもそも、そのころから原宿は徐々にファッションスポットになっていきましたが、表参道は1963年ごろまで代々木公園一帯を占めていたワシントンハイツに住むアメリカ軍属のショッピングエリアでその名残りが強く残った、もっともエスタブリッシュされた基地の町でした。それが明治神宮と並んでいたのです。芙二子さんが暮らした原宿は戦後こういう町になっていました。日本全体がアメリカ文化の傘の下でさまざまな文化、特にアジアの文化が霜降り肉のように同質化されないまま入れ子のように入り込んでいる場所として自覚されたということです。
ロッキード事件はこのころ起こったわけですが、それは一方で日本赤軍が1972年テルアビブでの乱射事件、1974年ハーグ事件、1975年クアラルンプール事件、1977年ダッカ日航機ハイジャック事件とテロ事件を海外で連続的に起こしていた事件と裏表になって見えました。ハーグ、クアラルンプール、ダッカ事件では日本赤軍犯人の要求によって日本政府は超法規的措置で服役囚を解放しています。いかに日本が単一の法によって法治された国家でないか、外の国からの干渉によって動かされているかを露呈させてしまったことにおいて、これらはロッキード事件の顛末と共通していました。さらに両者が航空交通に関わっていたのも象徴的です。たとえば旅客機内を法治するのは航空機が帰属する国家であり、それは外国領内にあっても持続すると形式的には扱われている。あるいは、日本の領空が日本の法の上に、アメリカ軍の管制圏として二重に法治されているという日本の特殊状況もある。国際航空路のネットワークとは、いわば法治された単一領域を超えた例外的領域=境界の連なりであり、こうした例外的な領域が航空路のネットワークとして地球を覆っているというわけです。たとえば細野晴臣はロッキード事件を主題にした「ブラック・ピーナッツ」という曲を1976年にリリースしていますが、ロッキード事件は法治国家に裏口が空いている、つまり国境に穴が空いていたことを示す好例でした。この無数にありうる裏口を通してやりとりされる文化の怪しさこそが、文化を活性化させているという認識が生まれたのです。YMOがあえてイエローという海外から東洋人を蔑視する呼び名をつけたのも、こうした状況をよく示していました。
アメリカから見れば沖縄の返還は、1975年のベトナム戦争の終結への過程、そして1972年2月のニクソンの中国訪問(から1979年正月の米中国交回復)に至る動きと連動していました。この間に日本も1972年9月25日に田中角栄内閣総理大臣が中国を訪問、早くもその4日後の9月29日に日中共同声明を発表して国交の正常化を宣言していました。いわば国民国家のボーダーが動き、ほころんでいく状況は、日本でのみ起こっていたのではないということです。
このような状況下で1975年当時の日本の現代美術表現がどのように見えたのでしょうか? それはいま語ったような、多国籍的に交錯した当時の文化状況を考えれば容易に想像できると思います。少なくとも当時、表現活動を始めようとした若者たち、たとえば、当時のぼくから見て、端的に、このときの現代美術と呼ばれるジャンルで行なわれている議論はこうした状況からずれた、内向的に閉じた時代遅れの世界に見えたのです。
たとえば「もの派」とは「印象派」と同じように揶揄的な呼び名で、土や丸太や石がごろんと転がっているという素材の扱い方の特徴が、類型化されたような表現を指す仇名として流通した言葉でした。のちに「もの派」として括られる一連の作家たちの会話のなかに「もの」という語が使われていた事実が1960年代末に見出されるとしても、「もの派」という語が定着し、広く流通し始めたのは1975年前後でしょう。この用語によって、作家たちは、単に見かけの素材の扱い方の共通性だけで「もの派」へ分類されていきました。すなわち「もの派」という語が流通し始めたのは、これらの動向がすでに様式としてマンネリ化してとらえられていたことを意味します。様式化によって、現実の文化の動きと対応したアクチュアリティを剥ぎ取られていったということです。
ところが、当時こうして一律に「もの派」として回顧され分類され始めた仕事、その源流と見なされるようになる仕事を、ぼくたち当時の美術を始めた人間は、その素材の特質である「もの」に還元してとらえてはいなかったのです。たとえば1970年に開かれた「人間と物質」展に集められた作品群は、のちに「もの派」として括られる傾向の源泉のひとつと考えられてもいますが、そもそも「人間と物質」展には外国人作家たちが多く選ばれていました。この展覧会に選ばれていた日本人作家の榎倉康二にしろ、高松次郎にしろ、問題群として共有して見えたのは、視覚化されない力、あるいは見えない領域の干渉です。あるいは異なる複数の認識枠で同じ対象、事象をとらえられたときに、その対象・事象が必ず露呈させるズレ、認識の亀裂のようなものです。いずれにしても、これらの仕事は決して「もの」に還元されるようなものではなく、むしろ「もの」として対象化され固定化されることを拒むものでした。むしろ、その固定された領域(美術作品で言えば「作品」という閉じた枠)を無数の諸力の干渉、さまざまな異なる系列の回路の重なり、ネットワークに解体しようとする方向性こそを持っていた。その意味でこれらの仕事はむしろ1975年以降の政治的・文化的な変動を予測し、またそれに対応してもいたのです。
にもかかわらず、こうした仕事が1975年以降に「もの派」という名称によって様式として固定され、芸術作品という物体=オブジェとして矮小化されて扱われるようになったのは、端的に作品を分類し展示する美術という制度の問題です。美術館ばかりか、たとえ貸し画廊であれ、展示をすれば自動的に特定の作家による作品として同定されざるをえません。
しかし、もっと大きく言えば、批評も含めた美術制度が、文化的状況の変化の大きさに応答できなくなった反動として、こうした後退が起こったと考えるのが正しいでしょう。すなわち、70年代に進行していった文化的な変動は、もはや既成の制度や文化的カテゴリーでは扱いきれないものになっていた。「芸術」かどうかなどという判断とは無関係に、それを超えて進行していたということです。
「人間と物質」展に含まれていた作家で、もっとも影響力あった作家のひとりに、ドイツの作家クラウス・リンケがいます。その仕事は、たとえば水を基本メディウムとし、そこに物理的な干渉、あるいは認識形式が被せられ、その瞬間、水は特定の形態を表わしますが、そもそも形を持たないメディウムとしての水はすぐにそこから溢れ出していき、そのズレが強調されます。作品行為は瞬間の切り取りにすぎず、メディウムとしての水の様態のほとんどは把捉できない外部にすでに流出してしまっている──つまりわれわれの認識(作品)の持つ時間および空間的枠から逃れるメディウムの横溢、変容──こそが示されます。作品行為は、運動し変化してやまない何ものかの姿を認めて、たとえば「あそこに鳥が飛んでいる」と指でさす行為と変わらないということです。指をさす行為=作品行為としてその作品は、作品の物質(メディウム)的実体をあえて確保し損ねる。そこで指さされた実体は、作品からは、すでに流出してしまっている。
これはたとえば、同じく当時影響力のあった作家、ヤン・ディベッツの仕事にも共通していた性格でした。たとえば有名な《コマドリの領域》(Robin Redbreast’s Territory/1969)はディベッツがアムステルダム公園に棲息するコマドリたちのテリトリーを観察し、同定していくという仕事でした。長い観察の結果コマドリたちのテリトリーが確定されます。ディベッツはそのテリトリーからちょっと外れた場所にコマドリが止まれるポールを立てます。そして、ついにコマドリはいつものテリトリーから外に飛び出し、そのポールに止まったのです。ディベッツはそれを本(『Robin Redbreast’s Territory』/1970)としてまとめますが、ここで作品とは何でしょう? 本でしょうか。ポールでしょうか。コマドリがいつものコースをわずかに冒険して越境しそのポールに止まった、つまりテリトリーを広げたというアクションでしょうか。ここで重要なのは、表現形式を超えた、さまざまな事象、活動が干渉しあう複数のテリトリーの存在が感受されることです。70年代に開始されたゴードン・マッタ=クラーク(彼は1969年の「アース・アート展」でヤン・ディベッツを手伝っています)の仕事もリンケやディベッツの仕事の流れで見られるべきものでしょう。
リンケを例にしましたが、「人間と物質」展に参加した他の作家、榎倉康二も高松次郎もリチャード・セラも、あるいは「もの派」の代表的な作家と見なされている関根伸夫の仕事も、水なり土なりの不定形なメディウムが、それに被せられる形式ごとに異なる様相を見せる、という方法においては共通していました。彼らは現実に作用する見えない無数の力の場を表現しようとし、その点においてその探求は自然科学と同時に政治的問題とも近接していました。「人間と物質」展に集められた作家たちの仕事が決して「もの」に還元されるような性格を持っていなかったこと[*1]は、ここに集められた作家の多くが同じ年(1970年)にニューヨーク近代美術館(MoMA)で開かれた「Information」展にも参加していた[*2]ことでも明らかです。物質と情報という、タイトルだけで見ると正反対にも感じられる展覧会に共通しているのは、芸術作品として行なわれる表現行為が現実世界の任意な切り取り、選択にすぎない、という意識です。
すでに情報の様態が物質と交差する構造は、情報理論におけるエントロピーという概念に明確に示されていました。たとえば彫刻、音楽、絵画、写真、言語という既存のさまざまな表現カテゴリーはそれぞれの形式に従って現実を恣意的に切り取るだけで、どれとして絶対的ではなく、一方でその対象はいかなるこうした区切りをも超え、流動的につながっています。その切り取りが情報であり、切り取られる余剰の部分がエントロピーである。エントロピーを含まない情報は自同律に陥るだけで情報価値を持たないと見なされるのです。
「Information」展カタログに掲載されたエッセイで、キナストン・マクシーン(Kynaston McShine)は、ゆえに彼らの活動自体はいかなる地域的限定、国籍によっても区切られることがない、と指摘していました[*3]。彼らは既存のいかなる制度的枠組みによってもとらえきれない、現実の揺動すなわちエントロピーに向き合っていたからです。マクシーンは、世界中からこの展覧会に選ばれたアーティストがそれぞれ直面している社会的、政治的、経済的な状況の危機に対峙するならば、従来の芸術形式は不適切に感じるだろう、と書いています。「Information」展に集められた作家たちの表現の応変、自在に使用しているメディア形式は現実に起こっている危機に構造的に応答しているというわけです。
中谷芙二子の「霧」が1970年に現われたとき、それがどのような可能性を持つものとして受け止められたのかは、以上のような事象を背景にして考えれば明らかだと思います。
「霧」の仕事は、彼女の50年代の絵画作品にすでに含まれていた、作品という枠に固定されているように見える絵画であれ、物質として腐敗(デコンポーズ)[*4]されることは免れえず、やがて別の形態へ変容していく──つまり個体が必ず死(=物質的な崩壊、分解)に向かい、やがて別の姿で再生する──という開かれたプロセスへの注目を受け継いでいました。作品行為はその開かれたプロセスの一面を切り取ることができるだけなのです。
「霧」は気化し目に見えない水蒸気とは違って、それはいくら微細ではあっても空気のなかにあって明確な輪郭を持って自立した水滴の集まりです。個々の水滴は明確な輪郭を持って空気のなかに浮かび漂っているけれど、その水滴の集合が作り出す全体の形状は不確定である。不確定というのは、これを観測する人間の視点が安定しないということです。そもそも霧に直面し包まれると視覚は遮蔽されてしまうし、引いて見いたり視点を変えようとしても輪郭も領域も決して安定しない。つまり微細な個々の水滴ではなく、その集合として現われる霧の形態は、物質ではなく統計学的に扱われるような物質と情報の重なり合った領域だということです。それはフィジカルな事実としてありつつ、フィジカルに扱えば、その知覚に映った像は失われてしまいます。新印象派の点描(よりはるかに高解像度になっていますが)と同様にです。「霧」はそれを固有の形を持つ対象としてとらえようとする人間の目から逃れていき、あるいは挑んでくる。すなわち、それを観察し対象としてとらえようとする者の認識に抵抗する運動、その運動自体が霧の形態として現われるのです。「霧」は人間の認識への抵抗、その運動の(心地よく、恐ろしい)形態だということです。1970年に大阪万博ペプシ館でE.A.T.(Experiments in Art and Technology)のメンバーが「霧」に託したのは、まさにこうした役割でした。いわばフラードームまがいの「アグリー」な建物に監禁されてしまうことからE.A.T.の仕事を逃走させ、逆に建物自体を包囲し、建物のリジットな形態を消滅させてしまうことこそ期待されていたのです[*5]。
→ 「霧の抵抗 2」へ続く