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再び話を戻せば、1970年以降、既成の制度そのものに組み込まれていた歴史的なプログラム(端的に、世界に存在する差異を次々と併呑=消去し、ユニバーサルなひとつの世界が実現する、という進歩史観)が失墜し、それに伴なって制度そのものを直接的に改革しようとする運動もまた挫折したと言われます。当然、弁証法的な展開として、記述される美術史(先行する芸術形式が批判され、そしてその対立の止揚として展開する歴史)も失効します。70年代になってはっきり自覚されたのは、もう特権的なプログラム(その代表は近代主義です)が存在しないということです。それはほかにもありえる「制度=形式」のひとつにすぎず、いかなる形式もそうであるように、それが普遍的であると正当化する根拠は持たず、正当性の証明は自同律に陥るほかありません。この認識は構造主義やトーマス・クーンのパラダイム[*1]論によって一般化され、
1.すべての認識、活動は構造化されており、その構造は整合的であることは同時に排他的であること、その構造によってあらかじめ規定(予測)された変化以外は認識できない。
2.人間の認識、活動が依拠するいかなる形式もそれが整合的に機能する限り、あらかじめ構造として完結し閉塞し、本質的(構造それ自体の)変化はその構造内ではとらえることができず、ゆえに発生もしない。つまり連続的推移としては構造の変革はない。
という認識が共有され始めていました。構造的な閉塞の自覚はあらゆる場面に行き渡り、たとえば記号体系(言語体系)に基づく限り、(新しい意味が認知されたとしても、すべてはあらかじめ登録された、せいぜい意味の複合としてしか理解されず)本質的に新しい意味の生成は説明できない、という難題が浮上していました(芸術表現においてこの問題はたとえば「彫刻」や「絵画」というジャンルを前提とするとその形式が展開の余地なく、あらかじめ完結していることが確認されるという問題に通底していました)[*2]。
が、明らかに、こうした形式的ジレンマは現実で生起していた出来事とは一致しません。むしろ、こうした構造的な閉塞の自覚は、すでに述べたように、無数の形式体系および価値判断──端的にほかの文化がほかにもありうること──が自覚され、実際にリアルに出現したことと並行していました(それこそがベトナム戦争以後の映画はじめポピュラー芸術の主題でした。典型的なのは『地獄の黙示録』(1979)ですが、あるいは70年代に『激突!』(1971)で登場し、『ジョーズ』(1975)に代表されるスピルバーグの主題の基本も理解不能、会話不可能な他者の露呈から始まっていました)。そこで直面されたのは、こうした異質な文化=通約不可能な別の体系、すなわち他者と、いかに会話、伝達そして同意形成が可能なのか。そもそも現実に起こる出来事の特異性は、既存の一般性に回収されることなく、認識されうるのかという問題でした。
しかしながら、この難題は、同一性をもって持続しようとする制度の内側から見た難題にすぎません。人間の精神に当てはめれば、精神において制度とは、精神を統合している自我になぞらえることができます。たとえば自我の同一性を前提にし、そこから観測しようとする限り、主体の本質的な変化は把握されえません。ここで本質的な変化とは「死ぬ」こと、あるいは「別人になる」ことを意味します。が、他人になったり、死ぬことは言うまでもなく、当の自我からは観察されえない。
けれど反対に、こうした制度(いわばその自我)によって支配、統御、抑圧され、そして(その制度的な自我のもつ)認識から排除されている側=〈それ〉からすれば、制度とはいかなる場合でも〈それ〉を測量し、閉じ込める(ほかに無数にありえる)枠、升、タガのようなものであるにすぎません。ゆえに、すでに〈それ〉はそこから観測不能なものとして外に押し出され、そこから溢れ出ているゆえに、〈それ〉の側にある限り、そもそもこうした難題は生じません。
後期フロイトの用語で言えば、ここで〈それ〉とは自我に対してエスと呼ばれるものにあたります。自我は死にますが、エスは死なない。重要なのは、エス=〈それ〉は個体の限界を超えて、物質レベルで他の個体、他の生命とさえ連続しているということです。その意味でエスとはいわばメディウムです。たとえばわれわれは水を飲みますが、それがどこから運ばれてきているか、それがそもそも生産されたものなのか、自然から略取されたものかさえ認知できない。それが飲み水だと認知(そして信用)されるだけでじゅうぶんだからです。一方、飲み水はペットボトルなどの容器、形式に入れられて、ようやく飲み水として認知され扱われるものとなっている。自我もいわばこの容器、形式であるということです。が、そこに入れられたメディウムとしての水はもちろん、いかなる特定の形式にも文化にも一義的に所属するわけではない[*3]。それは容器から溢れても存在し続け、どこかに集まり、あるいは他の物質を溶解し、汚染され、あるいは気化し変容し続けます。飲み水と認知し、ペットボトルなどの容器に閉じ込め固定することは、この可能性を切断し、自らの目的に囲い込み収穫すること、特定の形式に合わせ収奪することだということです[*4]。しかし、その水はどこから運びこまれてくるのか、どこに排出されるのか。いかなる文明であれ、こうしたいわばロジスティックスは不可欠であり、それがなければ存在しえません。つまり、必ずインフラ(下部構造)が存在する。その意味で文化として顕在化し、自覚された形式(上部構造)が完結し閉鎖系になっていたとしても、その下部構造(インフラ)は開放性を持っているのです(言うまでもなく、70年代に高まったエコロジー運動は、人間の文化[上部構造]が外部に排除してきた外部環境との関係を意識化し、外部環境との物質の出入りをより大きなシステムとして考えようとする思考でした)[*5]。
繰り返せば、70年代の文化は決して停滞していたのではありません。失速していたのは従来の制度=上部構造です。変化は、もともとこうした制度によって抑圧、隠蔽され排他されていた領域、下部構造(インフラ)に起こったのです。そこには別のシステムとの交通、交換の口が開いていた。70年代に起こった文化的革新のほとんどは、このインフラに関わっていました。つまり決して完結することのない、開放された物質の流動。インフラの改革は上部構造としての文化が自閉して失速して見えたことと矛盾しません。そもそも上部構造がそれを認識し損ねていた、その認識の欠陥=ズレがこの地滑りのような変化を動かしたからです。
認識による分節をそのまま現実に適用したときに引き起こされる欠陥は、ジェイン・ジェイコブス『アメリカ大都市の死と生』(1961)あるいはレイチェル・カーソンの『沈黙の春』(1962)などによって先駆的に指摘されたものでした。その意味で70年代文化の改革の多くが、具体的な生活の場面、またインフラに関わる仕事に直接従事する機会の頻繁な人々を主体にして起こったのは当然でした。すなわち、革新的なアクティビティのほとんどはマイノリティを主体に起こったのです。ここでマイノリティとは、既成の制度(芸術でいえば美術史)に歴史的に登録、記述された先行する人物がいないか、少ない集団を意味します。女性や有色人種などマイノリティに属すアーティストはたとえ例外的に記述されたとしても、美術史的記述を構造づける重要な役割を担った人物としては記述されませんでした[*6]。つまり個のアーティストとして認められることは、その表現が生み出された背後にあった固有のコンテキスト-別の思考のパラダイム、およびそれを共有していた集団から切り離されることであり、対抗する可能性のある別のパラダイムを遮蔽することを伴なっていました。
70年代の芸術における改革・変化の多くはインフラに起こりましたが、往々にしてそれは周縁あるいは領域外のものとして見なされ、従来の美術史的な言語からは軽視され、そもそも記述も難しかったのです。ゆえに一方で、こうした活動に関わった人々は、それが芸術であるかどうかという議論に無頓着で、「反芸術」のような芸術という制度を挑発し革新しようとする志向は希薄に見えました。制度である限り、そこに排除と選択の原理があり限界を持つことを知り尽くしていたからとも言えるでしょう。が、ゆえにこうした活動はまったく新しい文化的局面を開いたのです。ニューヨークの美術シーンで知られているところをランダムに列挙しても、1969年から開始された芸術労働者連合(Art Workers’ Coalition/AWC)、クロックタワーやPS1の活動で知られるアラナ・ハイス(Alanna Heiss)、「アンチ・イリュージョン 手続き/素材(Anti-Illusion: Procedures/Materials)」展のキュレータで、後にオルタナティブなNew Museumを開設したマーシャ・タッカー(Marcia Tucker)、先ほどの「Information」展のキュレータのキナストン・マクシーン[*7]など、きりがありません。東京国立近代美術館でのゴードン・マッタ=クラーク展(2018)で紹介されたソーホーのレストラン「FOOD」を設立し運営したキャロル・グッデン(Carol Goodden)の活動を想起してもいいでしょう。
70年代の日本での中谷芙二子の仕事──1971年のE.A.T.と連動して開催されたグローバル・プロジェクト《ユートピアQ&A 1981》、1972年の「ビデオコミュニケーション Do it Yourself Kit」展、《水俣病を告発する会──テント村ビデオ日記》、そして「ビデオひろば」結成から1974年のマイケル・シャンバーグ&レインダンスコーポレーションの『ゲリラ・テレビジョン』の翻訳出版、1980年のビデオギャラリーSCANの開設──で展開した活動が、世界的な変化と直接つながり、また基底的な問題意識で連動していたのは言うまでもありません。ひとことで言えば、そこにあったのは、あらゆる人為的形式=制度の間をすり抜けつつ、同時にそのことによって、相互に切断された文化、ジャンル、形式を結びつけていくメディウムの流れ、プロセスへの注目であり、名づけられず代理/表象されえないメディウム=インフラへの賭けでした。そしてそれは「霧」に内在化されていた構造とそのまま合致していたということです。
70年代の終わりから80年代にかけての文化は「ポスト・モダニズム」という潮流でよく回顧されます。ポスト・モダニズムが近代主義の一元的な歴史を否定し、無数の文化パラダイムの並立を意味するならば、それはすでに述べたように70年代中期には広く自覚されていたものです。そこで問題になったのは、それぞれ完結したパラダイムが互いに通約不可能であるときに、いかに相互の会話、伝達、同意形成は可能なのか? という問題でした。すでに述べたように、物質/情報のフローを一元的な形式に回収、統制しようとしないならば、それが可能であることは自覚されていました。が、それはいかなる形式も特権化させず、むしろ形式それぞれをつねに仮設的な状態、その解体、解散、崩壊への道を開いておくことにおいてだけ可能なのです(ゆえに、それは形式に一義的に定位できないゆえに観測=認知不可能だということです)。すなわち、通約不可能なものとのコミュニケーションはある意味、それぞれの形式において排除され、吐き出されたもの、いわば死んだものやエントロピーによってのみ、すでに(つねに)可能であったということです[*8]。
しかし、このように70年代に自覚された、(死やエントロピーという絶望的プロセスにおいてだけ、その克服も把捉されるはずの)通約不可能な無数の文化形式、異なる時間と空間の相互排他性は、80年代には、アメリカや(当時は)いわゆる先進国だった日本において、(死やエントロピーというプロセスをむしろ隠蔽して)一時的に資本主義市場に回収可能であるように演出されました。いかなる差異も(考慮せず)表層的なモードとして交換可能とする資本主義市場の包摂性が──いわば資本主義はメタ形式であると──強調されたのです[*9]。が、その幻想は1986年から92年にかけて破綻します。この時代にインターネットを含めたオルタナティブな回路への思考と展開可能性を抑圧してしまったツケとして、その後の日本文化の(展開どころか)持続可能性を著しく狭めることになってしまったことは確かでしょう。
が、中谷芙二子さんの長期にわたる活動の驚異は、こうした大きな制度の盛衰を超えて、いまだその活動が持続し、展開しているところ[*10]にこそ見出すことができるでしょう。それが可能だったのは、彼女の活動が確かな思想的な認識、そしてインフラ、その潜在性=可能性にこそ根ざしていたからです。芙二子さんという奇跡はその揺るぎなき(が、流動しつづける)インフラの現われです。そのあらゆる区切り=ボーダーを超えた流動が終わることは決してありません。それは作品や誰か特定の作者によって(芙二子さん自身によっても)代表/表象されることのない、本質的にアノニマスな運動だからです。
ソシュール言語学で知られた記号作用を示すシニフィアン(signifiant)/シニフィエ(signifié)図です(ただし、掲げた図および以下の説明はソシュールの原図とは上下を逆さまにしています)。横棒の上にある小さなs(signifiant)は、われわれが実際に見聞きしている表現としての記号です、その小さなsによって意味されているものが横棒の下の大文字のS(signifié)として記されています。横棒の下のS(意味)は直接、見聞きすることはできません。小文字のsとして表現/代理されて示されることができるだけです。
この図式を表現一般に広げてみると、われわれが知覚認識できるのは表現形式(この図では横棒で示されている)を通過した、上部にある小文字のsだけで、そのsが示しているもの(意味しているもの)、すなわち横棒の下にあるSのすべて、そのもの自体は知覚、認識できないと理解できます。われわれが知覚できるsはつねにSの一部でしかない。というよりも形式=横棒はほかにも無数にありえ、そのたびに異なる別のsが現われるだろうということです。横棒の上がいわば上部構造であり、棒の下を下部構造=インフラになぞらえることができます。
ひとつの横棒の上部構造、すなわちひとつの形式内でとらえようとすれば、そこは構造的に完結して本質的に新しい意味生産は行なわれえないように思えます(この上部形式sをただ投影し、それに対応したものとしてだけ下部のSをとらえるならば、下部のSもひとつの閉じた領域として理解されてしまいます)。が、いまだ上部形式をもっていない横棒の下にとどまる限り、下部のSは一義的にひとつの形式に従属していない、つまり開かれているということになります。
フロイトの図式を重ねれば横棒の上の上部構造は自我、下は下部構造としてのエスに対応します。ソシュールの図のこうしたメタフォリカルな読み替えは最初、ジャック・ラカンによって始まりましたが、70年代も中ごろになると、一般的に文化論が陥っていた自己完結性(自己言及性)の閉塞を打ち破る可能性として広く行なわれるようになっていました。美術でいえばフランスのシュポール/シュルファスという新しい動向の名称にもっとも端的に示されています。絵画として見られるべき表面=シュルファスをシニフィアンとすれば、このグループの主張はその従来の絵画的制度が投影された表面=シュルファスを成り立たせるために抑圧されたシュポール=支持体の可能性を解放することに的が絞られていました。が、繰り返せば、横棒=形式は、ひとつ(たとえば絵画という形式)だけではなく無数の形式がありえます。同じ物質(サポート)が絵画として見られることもあれば、彫刻としても食卓として見られることもありうる(ということは自我も社会秩序も可能性として無数にありうる)ということです。それらの異なる形式の下(横棒の下)に、いまだ分節されない領域が存在する。
たとえばジュリア・クリステヴァのアブジェクションという概念もロザリンド・クラウスの水平性も、元はと言えば同じ問題群を共有し、まさにこの「形式の下(横棒の下)の、いまだ分節されない領域」への注目において共通していたといえるでしょう。〈それ〉は形式(上部構造)に一義的に帰属しない、形式の地下(横棒の下)に流れるフロー、流動だと見なされる。このとき上部構造にだけ精神を見ようとするならば下部構造は形式としてとらえどころのない物質ということになりますが、実は精神自体も(自我のような)交換不能な領域として閉じているのではなく、その区切りはフレキシブルで解体可能つまり外部と連続しているもの、物質=情報の両面性を持つフローとしてとらえようとしていたとも言えます。情報価値を論理的に分析するとこのような物質的側面=メディウム的側面が現われることは、ノーバート・ウィーナーからクロード・シャノンに至る情報理論においてエントロピーという概念で明確に示されていました。こうした情報理論における情報=物質という概念の書き換えによっても、互いに閉鎖領域として隔離、分離されていた個別の精神の通底可能性はすでに示唆されていました。
あるいはコンピュータ・テクノロジーに当てはめれば、個別の精神の通底可能性は端的にローカルな無数のPCのデータがウェブで連結され、ひとつの開放系としての巨大なビックデータが構築されていくことと同型の問題とも考えることができます。こうした問題意識において、フロイトのエスのみならず、ユングの集合的無意識やティモシー・リアリーの神経政治学、あるいは、リジットな分類秩序を横断する一見カオティックで開かれた都市構造を解き明かそうとしたクリストファー・アレグザンダーの都市理論、さらにはドゥルーズ/ガタリのリゾーム概念も通底していました。ひとことで言って、それらはみな地下の開放系、インフラの理論だったということです。
ちなみに、そこで死が意味するものとは、上部形式=個々の形式の統制の崩壊、失墜だけです(フロイトは自我における統制を生の欲動とみなし、自我の崩壊=死を通して下部構造のフローに身を任そうとすることを、死の欲動と考えました。死の欲動はすべての形式の崩壊を引き受けつつ、その崩壊のプロセスに身を投じようとする、メディウムの流動による統合への超越論的な賭けとも言えるでしょう)。
ここで浮上するのは、ほかのパラダイムに属するもの=他者との通約不可能性ではありません。いかなるパラダイム、形式においても必ず排除があり、いまだ、いかなる形式にも位置づけられえない、決して包摂することのできない状態が存在するということです。そこに落ち込むことを死と呼ぶとすれば、一方でそれは固定した領域として名指すこともできない。その落ち込みはつねに個別で特殊な出来事でしかありえません。死は領域としてあるわけではない。ある意味で〈それ〉こそが理解不能な究極の他者とも言えますが、同時にいかなるもの(すべてのもの)も、その特殊な死=崩壊するプロセスを内在化させて存在しているとも言えるでしょう。死はつねに出来事として特殊であり、がそのそれぞれが特殊なプロセスが内在化されているということ自体は普遍なのです。
パティ・スミスが1976年に発表した「Pissing in a River」(アルバム『Radio Ethiopia』に収録)は、以上のようなこの時代の思想的先端を代表する悲痛かつ切実な曲です。この曲の歌詞で「川が呼んでいる」「呼んでいる川」とは、死の欲動そのものを示していると見ていいでしょう。──川のなかでおしっこをしながら、それが浮かび上がってくるのを見る(見えない)、おしっこをするように自分自身をその(人からもらった)魂もろとも、川の流れに排泄してしまう。──この世界の囚人(指の刺青でそれが暗示されている)であること、誰かにとっての誰かであることはもう川に流され川のなかにある。アルチュール・ランボーがそうしたように、回心、洗礼はここでまったく唯物論的な希望=メディウムとしての転回へ昇華されています。
「Pissing in a River」における川へと流す行為は、「Radio Ethiopia」でラジオによって自分の身体が無数の微塵の声に分解され散布させることに重ねられていることは言うまでもありません。「彫刻家ブランクーシの目が探し求めていた無限の抽象的スペース」(「Radio Ethiopia」)はラジオによって飛散されるプロセスのなかにだけ存在する。クリステヴァのアブジェクション概念は、その可能性をパティ・スミスのこのアルバムが全面的に(すでに)展開していたといえるでしょう