リベラルアーツと芸術教育について、2013年7月に行なわれたインタビューです。教育の基本的なあり方について、のみならず今後の教育がありうるかの方向も示す、基本的な視野が語られているので、ここに再掲載します。
諸学部のカテゴリーと哲学、芸術
──岡﨑さんの関わった四谷アート・スデュディウム(Yotsuya Art Studium)は、週に4つから5つのゼミがあるだけの、通常の学校で考えるなら、二つくらいの教室で成立しているような規模の、とても小さな学校です。[*1]一方で、ゼミで行われる演習は、領域の多様さ、扱われる技術の幅の広さ、そしてその分析と探求の深さで知られています。[*2]美術、音楽、パフォーマンス、映像、文学、評論、哲学とさまざまな学生たちがこの小さな規模の学校に集まっている。同時に、つねに何らかのイベントが企画され、その成果が発信されつづけている。[*3]この学校を契機にうまれた芸術運動や企画、批評の動向は多く、それは雑誌や出版物の成果ともなっています。[*4]そこで今回お聞きしたいのは、このように世界的にみても希有な芸術学校である四谷アート・スデュディウムが、どのような設計思想のもとでつくられたのか?ということです。あるいは、四谷アート・スデュディウムの学習の現場、生産の現場において、芸術はどのように位置づけられていたのでしょうか?
岡﨑│四谷アート・ステュディウムは、2001年近畿大学に作られた国際人文科学研究所の市民講座という枠からはじまりました。ご存知のように初代の所長は柄谷行人さんでした。僕は最初、その講座の中の芸術理論の枠を任され担当していました。ところで、国際人文科学研究所は、英語で普通「ヒューマニティ Humanity」とするところを「ヒューマン・サイエンス Human Science」とあえて誤訳しているのです。この訳は「人文科学/自然科学」、あるいは平たく「文系/理系」と分節された諸領域を、脱構築的に組み立て直そうという意図が含まれていたのだと考えています。かつて人文系の学問が自らを正当化するために、正確ではない科学的な比喩を使う悪弊が暴かれたソーカル事件がありましたが、一方で理科系の学問もそれを正当化するために、今度は反対にかなり曖昧な文学的、美学的比喩を多く使うことは見慣れた光景になっています。つまり専門化、分化し、互いに孤立した諸学問は、それ自身の正当性を自らの知によってだけでは訴えることができなくなってきた、ということですね。けれど単に比喩として、多領域の表現を安易に使うことは誤解を生み出すばかりか、それぞれの専門領域が形成してきた、各々の自律した判断基準の信頼性それ自体まで、裏切ることになりかねない。ではどうすればいいのか? 内側から突破する、つまり徹底して諸領域の探求、議論を掘り下げ、内側、根底から外部へ突破する、などというのは抽象的すぎ、また簡単すぎます。 ヒントとなるのは「市民講座」の「市民」という言葉です。市民とは何か? 市民はどのように可能か? 市民とは社会の形成を積極的に担い、それに責任をもち判断する主体である者、すなわち社会に対して主権をもつ者です。主権とはこの社会がどのようにあるべきか、国家はどうあるべきか、最終判断をする人々だということですね。それを市民と言う。学問の諸領域の分化、自律的な発展が進んでいくとき、それを結びつけるものは何か。それに正当性を与えるものは何か。この問題を考えることは、この「市民」というものが成立する条件を考えることと、必ずつながってくるのです。「文系/理系」という分節は、例えばさらに「虚学/実学」という分節に絞り込まれて、純粋科学ですらときに虚学に位置づけられ、まして芸術や哲学は役に立たないものとされてしまう。しかし「市民」という概念を、その条件というものを考えようとするとき、哲学や芸術こそ基本的な知になるということがあるのですね。
──大学の最高学位である博士号が「Doctor of Philosophy」と呼ばれていることからも、それがわかりますね。では、そもそも大学というのものは、どのような場所であり、何を学ぶところだと考えられてきたのでしょうか?
岡﨑│大学の起源を、とりあえずよく言われるように中世においてもいいでしょう。大学とは必ずしも実践的な技術だけを習得する場ではありません。技術だけならば、今で言えば専門学校、つまり技術研修の場、徒弟制度的な工房の方が、効率よく学べるからです。だから大学とは、かなり特殊な起源です。大学で行われるのは、それらの技術についての判断もしくは評価、そして、その判断基準の吟味、論理的な位置づけです。つまり理論を研鑽する場所であると。イマニュエル・カントは最後の著作『諸学部の争い』で、中世モデル以来の大学を、法学と医学そして神学の上級学部と哲学の下級学部に分けられているその意味を、批判的に分析しました。上級学部の三つは、いわば国家システムが社会を統治する三つの基準を示している。人間社会を統治し計る基準は法学。身体を統治し管理する基準は医学。人間社会を越えた世界を統御するのは神学。例えば、何かの技術がある。それが何の役に立つのか、良いか悪いかと問うときに「健康によい」とか「精神にうるおいを与える」とか言えば、社会的な合意が獲得される。となるとこれは、最終的に医学の領域となるわけですね。あるいは「泥棒してはいけない」というのは法学の領域である、と。これらの三つの分野は、国家があらかじめそのシステムに組み込んでいる正当化の三つの領域を代表している。大学はそういう正当性を与える理論や権威を勉強する場所なのです。しかしながら、下級学部として位置づけられていた哲学は――そこに芸術も入れていいでしょう――そうした社会のプログラムに組み込まれ得る目的に基づいていない。ではそれは必要でないか? という論争があった。それに対する応答が、カントの『諸学部の争い』です。 簡単に言えば、以上の法学、医学、神学という三つの学部は、既存システムに対しての合目的的な判断、つまり合システム的な判断しかできないということです。すると、このシステムそれ自体の良し悪しの判断はどのようにやるか? そのシステムが機能不全になったときにどうするか? 法学、医学、神学は通常の技術(学部)よりも上位ではあるけれど、規定的判断を前提にしている。であれば、規定的な技術を習得させる専門学校の理論編くらいにすぎないことになる。ところが哲学は、こうしたそれぞれの技術内の都合、規定的判断、すなわち突き詰めればそれぞれのシステムの効率、エコノミー、利害に作用されない。いかなるシステムの都合からも離れて判断できる。反対に言えば、下級学部としての哲学は、すべての技術の基礎を学び直すことで、それを問い直すことができる、哲学部のなかにはすべての専門領域が含まれているというわけですね、大学の中の大学だと。哲学だけで大学であると。 それ以外の上級学部、法学部、医学部、神学部は既存の制度を前提として、それを成り立たせる概念から規定的に延長される規定的な判断しかなしえない。それだけだと、どうなるか。例えばサッカーチームが固定したメンバーによって戦略が行き渡り、完成度があがった途端に機能不全を起こす、ということがある。システムが完成した途端に。そのときにどうするか。控えの選手がいる、いや、新しいメンバーを投入して、システムを入れ替える。では、この外部性はどこで確保されるのでしょうか? いわばカントはメンバー全体の配置を変え、チームシステムそのものを組み替えることが反省的(総合的)判断だと考えたわけです。メンバー個々の差異の総合から、別の概念、別のシステムが導き出される。下級学部としての哲学は、このシステムにとっての外部性を維持し、育てる場所、既存の場所に位置づけられない場所なのです。それが哲学であった。そして芸術というカテゴリーは、この哲学を補佐するものとして現れたと言ってよいと思います。例えば哲学には自然哲学も含まれます。自然科学において自然を観察する。そこで重要なのは言うまでもなく、観察から法則、理論を導き出す反省的(総合的)判断力です。それでは、観察=知覚に入ってくるその特殊な経験が、必ず、いまだ把握されていない普遍的な法則に則しているという直感は、何によって与えられるか? これが美的判断力に位置づけられます。その意味で芸術というカテゴリーは、哲学を補うものですが、しかしそれだけではない。
──アンチノミー展 [*5]で扱われた主題ですね。岡崎さんのテキスト「準備と注解」では、アルブレヒト・デューラーが『人体均衡論四書』で、「美」という唯一の基準によって作画するのではなく、その変形パターンを網羅的に洗い出し、奇形という例外に着目したことなどの例が挙げられていますね。
メタ技術としての芸術と美術大学が抱えるアポリア
岡﨑│それぞれの表現ジャンルはさまざまな個別の技術で成立していますが、それらの技術が社会的な場面で役に立つという役割を一時的に失効してしまったとき、その技術はもう役に立たない、無目的なものとして破棄されるべきでしょうか? もしそうであれば、技術の合目的性も整合性も、それを使う側のニーズによってそのつど変わってしまうことになる。例えばソロバンとか摩擦で火を起こす技術などは、すでに現在の社会では役に立たないとしても、その技術を成立させている固有な組み立て、その整合性や合目的性が変わることはないでしょう。ソロバンが電卓に代わっても、ソロバンの技術を成立させる固有の技術のロジックは、消去されることがない。つまり、それらの技術が合目的的だと言われるとき、その目的は外からのニーズにあるのではなく、それぞれの技術、具体的には道具に内在化していると考えられるべきなのです。 一端過去のものとなった技術が、思いもかけないところで復活して、新しい発明に結びつくことがある。例えばデジタル時計はカレンダーから発展したものであり、アナログ時計は日時計から発展したものであり、そもそも起源も違うし組み立てが違うのです。本が電子書籍に置き換わるかという問題で本質的なのは、頁をめくることとスクロールで読むことという表示の違いです。「頁をめくる」という表示の仕方は、スライドショーに近いのですね。デジタル時計にも近い。頁から頁へ一挙に飛ぶ。本はデジタルな表示方法だったということです。それゆえ電子書籍が一般的になっても、その本に由来する表示方法までは消去できない。むしろ電子書籍は頁による表示方法を復活させたゆえに書籍と称しているわけですね。このように、さまざまな特殊な技術があり、それぞれが固有の原理、論理、価値基準をもっている。この特殊を保存、担保しながら(つまり現実のユーズ、都合にしたがって消去したりせず)、つまり特殊を特殊として認めながら、そこに普遍的な価値を見い出すこと。つまり、他の技術と連携しうる可能性を見い出すことが重要です。すなわち、役に立たないが、きっと役に立つ、と。その普遍を見い出すことが、芸術というメタ技術の役割として期待されるものでした(美が特殊から普遍を導き出す判断力であることと平行しています)。そしてそれは、自分の目的に沿って道具を作るのではなく、道具をその特性にしたがってどう使いこなすかという知とも、つながっている。
──芸術がメタ技術だとしたら、芸術大学における学部の区分は、どのように決められているのでしょうか?
岡﨑│そうですね、では先ほどの大学の分析に沿って、芸術大学というものを考えてみましょう。芸術、少し絞って、例えば「美術」は技術と言えるかどうか? もちろんその表現を支える個々の技術、例えば鋳造、木彫、油画などはそう言えるでしょう。しかし先ほども言ったように、大学というものの意味を考えると、こうした技術の習得のみならば、大学よりも(職業)専門学校などのほうが、はるかに効率よく教えることができるはずです。あるいは工房に徒弟に行ったほうがよい。とりあえず大学とは単に技術の習得施設ではない(その発生においても)。では、芸術大学とは何か。芸術大学は諸技術の判断基準を探求するものだ、と言ってもよいでしょう。しかしその基準の位置づけは、法学部や医学部、神学部のような上級学部的に権威づけるやり方なのか。それとも哲学のような下級学部のようなやり方なのか。そこで議論は錯綜してきます。今話しはじめたのは、哲学を補完するものとしての芸術のことなのですが、それは大学にどのように位置づけられるのか、という問題があります。 実際、美大の歴史は、これまでに述べてきた大学の問題を反復しているとも言えます。美術大学では、彫刻科、絵画科(洋画、日本画)、版画、デザインと分野に分かれています。さらに芸術文化学科などというものもある。専門学校であれば、この分節は意味があるかも知れません。けれどこの分節が社会を構成する重要な諸技術を反映して設けられているだけであったら、新しい技術が生まれるごとに、組み替えられなければならない。版画科というものとグラフィックデザインの分節は適切かどうか、ということになります。時代に応じて増設したり、減らしたり、もちろん美大だけの問題ではありません。技術の習得、マニュアル習得、資格の習得が目的であればこうなります。そしてそうであれば専門学校のほうが断然効率がいい。写真やイラストや映画の習得や建築士免許をとるための勉強だったら、今はそうでしょう。 技術習得を目的として学部を編成してしまったとき、美大の各部門が膠着するのは今にはじまったことではありません。東京美術学校(東京藝術大学の前身)ですら、絵画修復などの科目を除いてすぐこうなってしまう。もし美術大学が特権的に芸術を定義する、オーソライズする機関であることに失敗してしまうならば、すぐに学部の編成も空転をはじめてしまうというわけです。端的に、美術大学は美を定義する権威をもつ機関である、と少なくとも国立大学としての芸術大学では考えられる。けれどその組織化はうまくいかなかった。芸術は法学部や医学部や神学部のようには位置づけられない。例えばアカデミー、フランスのボザールは、美術を規範として法のように位置づけようとした。あるいは芸術を医学のように位置づける、もしくは工学的そして数学的に位置づけて形式化しようとする試みが広がる。いずれにしてもそれらは、規定的判断として成り立つように組織しようとしたということですね。東京美術学校の設立に関与したアーネスト・フェノロサは美を哲学に位置づけようとしたように見えるけれど、詳細にみれば彼も(彼のいう哲学も)、美を規範=法として扱おうとしたと言えます(芸術を神学的には位置づけようとする試みは、近代国家においては、おおよそ歴史主義にもとづく象徴形式まがいのものへと転位し、やがて破綻します)。ここでようやくカントの論じた話につながるかもしれません。芸術学校において、芸術は国家の秩序にもとづく上級学部(すなわち法学部、医学部、神学部)には位置づけても、膠着してしまうだけである。というのも芸術は、あらかじめ確定された規範から演繹されるものではないから。特殊から規範を導き出すための方法だからです。 つまり、芸術が法学や科学、数学に位置づけられるのではない、実際は逆なのだ、というのがカントの考えであり、また東京美術学校で講演した夏目漱石の考えでもありました。法学こそが実は美学、芸術に位置づけられる。漱石が考えたように、なぜ美大の学生がほとんど独学的にであれ「芸術とは何か」という問題に直面し、ひきこもりになり、そのとき「現実とされる社会とは何か」という問題を考えはじめることになるか。このある種、本能的にもみえる反復される行動パターンは、こうした問題に由来します。実は個々の学生の問題ではなく、美術大学という存在自体が「芸術とは何か」という定義を要請する(大学である以上、それは絶対に迂回できないのです)。しかしこの原理をもとに構成された学校はなかなかありません。
ジョン・デューイの教育プログラム
──学校という教育機関は近代において、国家における国民をつくり出す一つのシステムであったとも思うのですが、教育の歴史についてどのようにお考えですか?
岡﨑│近代国家が成立する過程で、規律訓練型の、いわば近代国家がその技術的な基盤(インフラ)とするOSを、個々の国民の身体に植えつけるという教育が、制度化されていきます。確かに義務教育というのはそうしたものでした。けれどこれが浸透していく過程で、十九世紀の終わりに、新しいタイプの学校が生まれはじめます。代表的なのはジョン・デューイがシカゴにつくった実験学校をモデルとする、新しい学校ですね。日本の大正自由教育を代表する文化学院や自由学園、玉川学園あるいは明星学園などの学校は、デューイの影響を強く受けている。デューイは日本に1919年に来日もしています。例のブラック・マウンテン・カレッジも、設立は自由学園などよりむしろ遅れていますが、デューイの影響を受けている。 デューイの実験学校の最大の特徴は、工房そして実験室というものを教育機関の中心に置くことにありました。よく知られているようにデューイの学校では、裁縫や料理、大工仕事などの具体的な仕事=オキュペーションを、さまざまな学科のカリキュラムを相関させる仕掛けとして用います。教える側がノルマ(教科)として考える、数学、物理、地質、生物、芸術、言語、歴史という科目のカテゴリーを、教わる側のこどもたちから見直すと、それらは、1. 工作すること――コンストラクション、2. 実験すること――料理、3. 物語ること――記録、伝達、という3つのカテゴリーになる、と考えるのです。芸術は1、2、3のすべてに関わる。1は裁縫や木工など、すでにできている技術を、こどもたちが実際に体験してみるということに近いけれど、2は与えられた条件のなかで何ができるかを考える作業です。あるいは、何かが現象したことを、なぜそうなったか仮説をたて、その仮説が正しいかどうか実験し、何度でも再帰できるような条件を考える。つまり、不安定な現象を安定した技術になるよう、試行錯誤していく。これは自然科学における観察という行為の基本でもありますが、面白いのは実験が料理と結びつけられているということです。こどもたちにとって実験室、理科室での演習は台所で料理することに近いということです。これは本当にその通りだと思う。3は人に伝える、表現すること、そして表現されたものを理解することです。ということで芸術は1、2、3すべてに関わっている。このデューイの学校の建築をみてみると、学ぶ側からの3カテゴリーに応じて工房、実験室、そして教室と三つに分かれている。ここで重要なのは工房の役割が大きいのはもちろんですが、実験室の割合が大きいということです。ミニマムでこの三つの部屋が必要。研究室、ギャラリー、教室のミニマムな四谷と同じです(笑)。 デューイの本のタイトル(『経験と教育』『経験としての芸術』など)からもわかるように、デューイの教育モデルで重要なのは、経験から何かを学ぶこと、つまりあらかじめ答えが与えられていない場所で、こどもたちが試行錯誤をして、そこにある理論、法則を発見するということです。まさに規定的判断ではなく反省(総合)的判断力の能力を育てることが重要視されている。そのための装置として実験室というのは大きな役割をもっていた。ただ実際の活動、仕事(オキュペーション)を通して、さまざまな科目を横断するというのではない。その横断をするには、そのつど仮説を立て実験を繰り返し、実証し精度をあげていく試行錯誤の過程が、必要だということですね。哲学そして芸術にカントが託した役割、反省(総合)的判断力の育成方法が、もっと実践的に装置化されている。つまり、個々の特殊な経験から普遍が引き出される方法が、実験であると。芸術で「実験主義」とか「実験芸術」という言葉がありますね。実験芸術と呼ばれるものが、予定された確定的な結果に異議申し立てするものであるのはもちろんですが、かと言って、ただ特殊な出来事を引き起こせばいいというわけでもない。その特殊からいかに新しい認識、普遍を引き出すか、その過程にこそ価値を見い出すのが実験芸術の核心であったことで、これもデューイの実験教育のプログラムから引き出されてきた考えであるとも言えます。つまりデューイ流のプログラムにおいて、芸術は新しい概念発見、創出のプロセスであると考えられたということです。
──「実験芸術」と言うと、かつて四谷で開催されていた連続イベント、エクスペリメント・ショーの宣言文[*6]を思い出しますね。「芸術において実験は、ほんらい、自分の実感、感覚を信じないところからこそ生み出された。すぐれた芸術家で自分の感覚を信じた人間はいない」ともおっしゃっています。
岡﨑│このように考えれば、デューイの教育は、たとえオキュペーションとよばれる生活実践が核心にあったとしても、そして、裁縫や料理や農業や工作などの作業をいかに多く含んでいたとしても、よく勘違いされているような共同体、コロニーまがいのものをつくろうという運動ではなかったことは明らかだと思います。そういえば自由学園のスターが村山知義であり、ブラック・マウンテンのスターがロバート・ラウシェンバーグであって、この二人の方法が似ているのは決して偶然ではないですね、二人とも裁縫仕事が大好きだったし。教育とは、生産手段と個々の主体(こども)との関係を、具体的で身体的な関係、つまり手で直接触れ経験できるもの、試行錯誤、変更可能なものとすることです。その試行錯誤を通して、生産手段とこどもたち(主体)との関係を可塑的なものへと開く。ひいては主体自体(身体所作そして認識)の可塑性をつくりあげる、鍛えるということになる。経験に開かれた主体をつくる。あるいはそのつど新しい特殊な経験から、そのつど新しい認識、技術を引き出すことのできるような主体を確保する。規律訓練型の教育が与えられるシステム、生産手段に身体を適合させる、マニュアルを植え込むことだったとすれば、そこで主体を決定するのはシステムです。一方デューイ方式では、生産手段と主体との関係を偶有的なもの、可塑的な関係に再度開く。その装置として重要なのが実験室、オールマイティの工房だった。そこで何でも自分でつくってしまう。[*7]
実験室と市民の条件
岡﨑│近代の条件は産業革命だったと言われます。産業革命は工場制機械生産によって成し遂げられますが、しかしその条件は、それに先行するマニュファクチュアつまり工場制手工業によっている。工場制手工業における変革とは、従来の生産技術そのものではなく、それに対する人間の関わり、組織を変更することによって成し遂げられた。つまりマニファクチュアの時代の工房とは、自由にプログラムを組み替えることのできる実験場だったということです。主体の可塑性がそこで見い出された。これが自由に判断する、市民という概念が生まれる条件ともなった。デューイの実験室は、ここに直結しています。言うまでもなく、啓蒙主義と産業革命、そして市民革命は連動しています。資本主義、産業革命の条件は、生産システムの構成員つまり労働者を入れ替えられることであり、それを切り捨てたり人数の増減が自由にできるということです。労働者はいつ失業者になるのかわからず、また別の仕事につく可能性がある。冷酷な条件ですが、労働者は主体として特定の生産手段には固定されていない、ということでもある。 先ほど述べた規律訓練型の近代教育、つまりシステムに合わせて身体も精神も型にはめる、生産システムに規定された主体に反して、むしろ、いつ放り出されるかわからない労働者にとって、特定の生産手段に規定されず、いかなるシステムにも適合できるような可塑性が能力として必要となる。資本主義という制度側からみても、それはつねに所属する組織、システムを特定化しない余剰の人員があることを条件としているとも言えます。それは端的に失業者のことであり、いずれ「システムを特定化しない」のは、産業革命以降の労働者の条件でした。生産手段そして生産過程から疎外された主体、ゆえに生産システムに支配され規定される主体。確かにそうとも言えますが、同時にこの主体は、いかなるシステムにも特定化されない可塑性をも備えていなければならない。「システムからの疎外」を積極的に捉えれば「可塑的である」ということです。けれどもその「積極性としての可塑性」はどうやって確保されるのでしょうか。機械制工場生産に先立つマニファクチュアの時代には、システムと主体との関係を組み替える可能性に開かれていた。技術革新を、自らの身体を介入させて日々開発することができた。これが機械化されると労働者はただ、いかなる特定された機構にも所属しない者になってしまう。機械生産つまり産業革命後に、この可塑性を維持する実験室はどのように確保されるのか。デューイはそれを教育の場にもとめた。教育の場はその意味で、つねにオルタナティブな開かれた実験工房である。これがいかなるシステムからも自由に判断する、「市民」の条件であるとすれば、教育というより学習、実験は、青年期までだけで完了するというものではありえない。 啓蒙主義の時代すなわちマニファクチュアの時代に、私塾が世界中で生まれました。日本でも懐徳堂や本居宣長の鈴屋、杉田玄白の天真楼、あるいは千葉周作道場のようなものまで、さまざまな私塾ができました。慶応義塾も同志社も、もともとは私塾です。言うまでもなく塾はそろばんや習字などの稽古だけをするところではない。むしろ私塾は同時代のカントがいった意味での哲学(自然哲学を含む)や芸術こそを教えたのです。懐徳堂で言えば富永仲基という天才が現われた。あるいはその少し前には三浦梅園や平賀源内という人もいた。ほぼ同じ時代です。彼らの特徴はみな恐ろしいほどの博覧強記であるだけでなく、むしろ体系への志向があったことです。ほとんどは制度の中で学問をやったのではなく私人、町人として、つまり「市民」として、学問をしたのです。そしてその時代、こういう学問を必要とする支持者たち、多くは町人、あるいは上層階層から外れた者が大勢生まれていた。彼らには、既存の生産体制のほうが個々の人間=労働者よりも一過的であり、変化するものであるという自覚があった。また、ある技術に習熟しても、この技術はすぐ使い物にならなくなり、新しい適応を求められることが必然になった。いつでも失業する可能性に直面している労働者つまりプロレタリアートにカール・マルクスが期待したのも、あらゆるシステムにも特化されず、反対に言えばいかなるシステムにも適応できる、みずからの可塑性をむしろ自覚できる可能性をもっていたからでしょう。この可塑性こそが啓蒙主義の要にあったと僕は思います。いかなる規定的判断もきっと無効になる、その必然を自覚している者。そしてそれが「市民」ではないか。 「市民」の条件は、その可塑性からくる過剰な活動、すなわち好奇心=勉強です。そしてそれを可能にするのは、彼がつねにそれを鍛えることのできる実験場、工房に出入りできているということ、あるいはそれを自前でもっているということにある。カウンターカルチャー的に言えば、「ガレージ」が重要(ちなみに四谷のギャラリーは、もともとガレージだったのを改造したものです)。それはそのガレージから生まれたガレージ・パソコン=マッキントッシュの発想にも、そのままつながります。パーソナル・コンピュータは、すべての既成の技術をアプリケーションとして実験できるためのものだったのですから。すなわち、誰もが手にもてる実験室。持ち歩くことのできる実験室、工房です。
──『芸術の設計』[*8]という本で、個々のジャンルの歴史とパソコンのアプリケーションとの相関関係が分析されていますね。
岡﨑│つねに実験とともにあること、実験室を維持すること。これが社会システムに内属した判断、合理的で効率的判断ではなく、その外部に出て判断することを可能にする、市民が社会の主権たりうるための条件です。ジョン・デューイの教育システムからブラック・マウンテン・カレッジが生まれました。バウハウスからウィリアム・モリスのアーツ&クラフトに遡っても同じことが言えるでしょう。モリスたちの運動でも「生活と芸術を結びつける」とか「思想と生活実践をむすびつける」というよりは、生産手段と主体との可塑的な関係を取り戻そうとした点こそを、改めて再考、評価するべきだと思います。つまり可塑的な工房を取り戻すこと。モリスにしてもその後のバウハウスにしても、近代社会になってバラバラに分化してしまった諸技術、工芸技術を、かつての中世教会をモデルに建築において(として)再統合し直すという理想主義だけだったら、ただ新しい安定した秩序、制度をつくろうとしていただけにみえる。スタティックで時代錯誤なモデルにしか見えない。けれどモリスの工房がそうでなかったように、バウハウスの議論の中でも一番重要なのは、造形物ではなく、造形を通して主体の可塑性をいかに取り戻すか、あるいは主体の可塑性という仮説をいかに建築や舞台を通して実現するか、ということにあった。 こうして教育と芸術の関わりを改めて見直してみると、芸術が、何であれ何か新しい事象にぶつかってそれにフレキシブルに対応し、そこから新しい概念、新しい手法を学習できる能力、つまり学習する方法=能力それ自体を習得する方法として位置づけられてきたことがわかります。可塑性それ自体を確保し、維持する装置として芸術実践はあった。いわば美術で造形されるのは主体である。主体の可塑性を確保し、実験しつづけることが芸術であった。例えば現在、巨大なアパレルメーカーにみられるように規律訓練型そのままに、マニュアル通りの行動を労働者に刷り込み、それ以外の行動の誤差をなくすという方法が増えてきている。けれど一方で終身雇用制という方法は滅びつつある。企業はかつてより、たえまなくシステムを入れ替える必要がある。労働者はいつ放り出されるかわからず、新しいシステムにすばやく適合できる能力がもとめられてもいる。企業にとって、たえず入れ替わり入ってくる労働者に対し、マニュアル刷り込みは効率がいいのでしょうが、そのたえず新しい刷り込みに対応できる人員はどこで確保するのか。主体をマニュアルで固定すればするほど、主体の可塑性は硬化してしまう。たえず入れ替えられる場所では、人は互いにライバル関係におかれますから、職場が学習の場になることは難しいとも言えます。システムの入れ替えが早くなればなるほど、システム内の教育では、それに対応できる人員も能力も確保できなくとなるという矛盾が出る。システムの入れ替えが前提となるならば、労働者も経営者もそれに対応する技術、能力をシステムの外で会得する必要がある。社会に出てもつねに自らを鍛錬しつづける必要がある。啓蒙時代の塾、デューイなどが考えた工房、実験室モデルは、現在でこそ有効だと思います。
──四谷アート・ステュディウムの募集要項には、こう書かれていましたね。「四谷アート・ステュディウムは、まったく新しいシステムの芸術の学校です。ここで行なわれる全ての活動は、それ自体が具体的な生産を行なう実践の現場であり、研究、生産の成果を社会へ発信し、異なる世界を結びつけるメディアとして機能するよう構成されています。社会の手前のぬくもりに待機する学校ではなく、社会が生成するひとつの工場であること。これが四谷アート・ステュディウムのコンセプトです」。ここでは「工場」と書かれていますが、これは今日話されたような実験室、工房として設計されていた、ということですね。
準備と注解|岡崎乾二郎 http://studium.xsrv.jp/gallery/publishing/jyunbi.html