消しゴムはせっせと身を削る。文字を消すごとに、その労働の成果として、きっちりその労働分だけ減る。たとえばそうした、対価として現われる減少のあり方に、焦がれる者がいるとする。その人はこう願うだろう。「消しゴムのように、消すことで消えたい。消すことが消えることの準備であってほしい」。しかしその人の「減る」は、消しゴムの「減る」のような確固たる削減感をもっていない。何かすると減る。何もしないと減る。この逃れがたい削減のさなかにおいては、削減感はむしろ不確かだ。「ひとつの行為が自らの削減に結びつく者は幸いである、それがその行為を、贈与であると証拠立ててくれるのだから」。消しゴムが反論する。「幸いか否かは知らないが、それが結びつかないからこそ、徐々に徐々に削減していくというのはわたしと同じ条件であるはずなのに、それを知っていてもなおあなたは、自分自身というものだけはなぜか、ひたすら続くこの削減とはまったく別個に、間をもたず一挙に、瞬く間に消滅するものなのだと、そう信じているのだ」。
自動車の運転で、外国に行ったときに、右側通行に慣れることは比較的簡単だ。いつもの左側通行とは逆のことをすれば正しいということが、すぐに導き出せるから。ところが、それから外国から日本に戻ったときには、少し混乱する。「いつもどおりにすれば正しい」という思考回路になるにもかかわらず、その「いつも」が、「いつ」の「いつも」であるのかがわからなくなるからだ。それは、180度回転させたものをまた180度回転させて、計360度回転して元の位置に戻ればいい、というだけのことなのか? 一度の逆転操作だろうと二度の逆転操作だろうと、「いつもとは逆」がいつでもできる技量があれば、手間としては大差ないのではないか? いやむしろ問題なのは、そうした関数としては理解しているのに、関数にかける対象を一時的とはいえ見失っているということだ。関数はわかっているのに、そこに代入すべき「いつも」が「いつも」とは違うのだ。それゆえ、この混乱が混乱であるための条件は、実は極めて曖昧な状態かもしれない。基点がすでに変わっているのだけれど、それが中途半端で、完了しきっていないことが重要なのだ。日本での「いつも」をはっきりと覚えていすぎたままでは混乱は起こらないし、渡航先の外国がもはや外国とは呼べないほどに慣れた「いつも」になってしまっていても混乱は起こらない。現在の「いつも」とかつての「いつも」がちょうど半々くらいにないと駄目なのだ。
この「いつも」に関する自動車運転の例に、カフカの断片を並置しておこう。「わたしはほかの連中とおなじように泳ぐことができる。ただわたしはほかの連中よりも記憶力がいいので、かつての〈泳げなかったこと〉を忘れていない。ところが忘れていないために、〈泳げること〉もなんの役にも立たず、結局は泳ぐことができない」。二つの例はある意味で対称的だ。運転の話は、自然化された習慣・癖が複数あって、それが対立するがゆえに、どれが本当の「いつも」がわからなくなるというケース。カフカの断片は、かつての「いつも」を記憶しているがゆえに、新しい「いつも(自然化された習慣・癖)」が根づかないというケース。つまり前者だと自然化が相対化されることが問題で、後者だと自然化が相対化されないことが問題になっている。
ある鳥が小魚を食べようとして水に潜った瞬間、同じ小魚を食べようとして、別のそれより大きな魚が、一歩先に小魚を食べたその鳥を食べてしまった。「普通は鳥が魚を食べるものなのに、反対に魚が鳥を食べている!」という逆転がその受容を枠づけているにせよ、逆転がもたらす単純な異化には汲み尽くしがたいことがそこでは起きていた。瞬く間に過ぎ去ってしまうわずかな時間の出来事だが、その一瞬に複数の異質な経験が折り畳まれている。
「鳥/小魚/魚」と観点をわけてみてみよう。まず(a)鳥の観点からすると「小魚を食べる -と同時に(次の瞬間に)- 魚に食べられる」、すなわち主客反転(能動と受動の反転)的な出来事である。次に(b)小魚の観点からすると「鳥に食べられる -と同時に(次の瞬間に)- 魚に食べられる」となる。普通に考えると小魚は、鳥に食べられた時点で死んでいたら、魚に食べられる出来事を知ることはできない。しかし、食べられながら食べられることがありうるとすれば、それはどういう事態なのか? 二度食べられるということはありうるか? 最後に(c)魚の観点からすると「小魚を食べる -はずが- 鳥を食べていた」出来事となる。
三者のなかで一番劇的な局面にあるのは間違いなく(a)鳥の観点だろう。しかし今ここで考えたいのは(b)小魚の観点、不可能にみえる「二度」という事態である。一度食べられるのは何ということはないありきたりな出来事なのに、二度食べられるとなると、途端に不可解な出来事と化すのはどうしてなのか。反芻し得ないことを反芻する地点に立つとはどういうことなのだろう。一度きりしかあり得ないはずのことが二度起きるとはつまり、幾度となく起きうるということをも示唆する。これを機に小魚は、まるで服を着替えるかのように何度でも食われることになるのだろうか。二度食べられるとは、死んでまた生まれてまた死ぬ、という循環のことではない。あいだの「また生まれて」がない、死んでまた死ぬ。もしくは、死ぬ瞬間にはすでに死んでいる。それはいわば堆積されない「二度」だ。主客反転型の(a)鳥の観点は「ミイラ盗りがミイラになる」にやや近いが、(b)小魚の観点は「ミイラがミイラになる」ような反復なのだ。また、(c)魚の観点も、「~したはずが~だった」という意図と実現の落差に着目するよりもむしろ、すでに食べられてしまったものを食べるとしたら、いったい何を食べていると言えるのかと、(b)小魚の観点に引き寄せて考えるほうがずっと興味深くなる。それはいわば、過去に食べられたはずのものを今食べている、というような不可解さだろう。
ある鳥が小魚を食べようとして水に潜った瞬間、同じ小魚を食べようとして、別のそれより大きな魚が、一歩先に小魚を食べたその鳥を食べてしまう映像を見た。「普通は鳥が魚を食べるものなのに、反対に魚が鳥を食べている!」という逆転がその一般的な受容を枠づけているにせよ、逆転がもたらす単純な異化には汲み尽くしがたいことがそこにはあった。それは映像だからこそ把握された出来事なのか。実際に肉眼で見ても、映像で見るのと同じように、はたしてわたしはそれを考えるにたることだと思えただろうか。
この映像には誰かの声が聞こえたり、手足が写り込んでいる。数人がその場に居合わせていたようだ。この人たちはどのようにこの出来事を把握したのだろう。おそらく「小魚を食べている鳥を魚が食べた」ということは、その場に居合わせた者と映像を見た者が、互いに了解できることだろう。だがそれは、まさしくこの「小魚を食べている鳥を魚が食べた」という言葉によって、映像を見た者とその場に居合わせた者の経験とを繋ぎ合わせることができる、ということでしかないのではないか。あるいは、それらが共通した事柄を含んでいるのが確認できた、ということにすぎないのではないか。
頻繁に起こる出来事と、そうではない稀に起こる出来事がある。稀に起こる出来事のほうが頻繁に映像に映し出され、テレビやウェブなどのメディア上で頻繁に見られている。そうした、稀に起こるが映し出されるのは頻繁な出来事のうちの一つをわたしは見た、ということになるだろう。映像を見るとは、稀である度合を見ることだと考えることもできる。稀でないありきたりな系列1、鳥が小魚を食べた。稀でないありきたりな系列2、魚が小魚を食べた。系列1と系列2が交差しバッティングすることで「魚が鳥を食べた」という稀な出来事が生じた。そう「稀である度合」を判定することも可能だ。この「小魚を食べている鳥を魚が食べた」という稀な出来事は、もしも映像が撮られていなければ、言葉の上だけの嘘だと思われたり、それを見た者も見間違いだと思ってしまうことがあり得た。つまりそこで映像は証拠、エビデンスを確保する役割を担っているというわけだ。しかし真偽のエビデンスではなく一回性のエビデンスというものがはたして存在するだろうか。
そもそもの事のはじまりは、その場に居合わせた者のうちの一人が小魚を海に放り投げたところからだったことを、今思い出した。映像の冒頭から水面にカメラが向けられているから、おそらく彼らの意図としては、魚の姿を撮ろうとして小魚を海に放ったのだろう。とすればこれは、「小魚/鳥/魚」の三項ではなく「小魚/鳥/魚/カメラ」の四項関係で成り立っている出来事だったということになる。いくつかの異なるものの欲望が、ある一点でつかのま交差して、互いにかすめ過ぎ去ったのだ。
パレットが二枚あるとする。一枚は絵の具を出しパレットとして使うが、もう一枚は先のパレットをモチーフとし、カンヴァスの代わりのつもりで、絵を描く支持体として使う。たとえば、パレット1のある位置に出された任意の量のカドミウム・レッドを、(パレットは描くことなく)きっかり実物大で描こうとして、パレット2の同位置に塗る。つまり実際の作業としては、パレット1からパレット2へと絵の具を移すだけ。するとパレット1は、モチーフであると同時にモチーフを描く素材にもなるので、パレット2に絵の具を移す過程で変形を被ることになる。たとえばパレット2にカドミウム・レッドが置かれれば、パレット1のカドミウム・レッドは当然分量が減るし、細心の注意を払ってもその形は以前とはやや異なってしまうわけだ。新たにパレット3を用意して、パレット1のモチーフと素材の二重使用を分別しないかぎり変形は免れない。したがってその描写は、手数が増えたとしてもいつまでも完成しないままだろう。写す/写される関係の外部にあるパレット3を導入し、「パレット1=モチーフ/パレット2=支持体/パレット3=パレット(絵の具置き場)」と整然と分別すれば、もちろん相互作用も解消する。しかしその場合、どんなに自然さを装おうともパレット2のほうがパレット1より作為的にみえてきてしまう。作為的にみえるのは、二つのうちどちらが後に作られたのかその因果が明瞭であるからだ。だからあたかもそれらが同時に生成されたかのように仕向けなければならない。しかし傍からでは区別がつかないほど瓜二つの双子ですらその生まれが完全に同時刻ではあり得ないのに、同時に生成されたようにみえるとはいかなることか。そっくりな二つのものがあるということ、どちらが原因でどちらが結果かわからない二つのものが存在すること、まったく同時に二つのものが生じるということ、それらの関係はどのようなものなのか。
この河原にある石は一つとして同じものはない、とあるときいきなり直観する。すべての石を実際に見比べたわけでもないのにおかしなことだ。それにもましておかしいのは各々違うと直観したにもかかわらず、膨大な数の石の個体識別の作業は(石にマーキングすることなしには)いつまで経っても完遂しないままであることだ。まるで覚えられる個体数に限りがあるかのごとく。
さっき見た石と今見た石に違うということ以外の違いを見出せないのであれば、いっそこれら膨大な数の石がすべてまったく同じ石であってもかまわないのではないか。この膨大さ、複数性にどんな意味があるのか。ある意味のっぺりとした、量的にしか立ち現われてこないものの素っ気ないありさま。もしもそれぞれ違うのが、唯一人間しかいなかった場合の窮屈さとは何だろうか。世界の中に「それぞれ違う、が複数ある」とはどういう類いの事実なのか。
すべての石は、かつてひとつの石だった。もしくは、世界のあらゆるものは無機物と有機物とを問わず、かつてひとつの存在だった。だが事実そうだったとして、かつてひとつだったものがそれぞれの仕方で今は別々になっているだけなのだとしてしまえば、現にあるこの膨大さは打ち消されることになりはしないか。
一度きり起こるはずの出来事が、幾度となく繰り返される。街の中であの顔を見ることは、確かにはじめてなのだが、しかし見知らぬ顔を見たそばから忘れることは、幾度となく起きている。その場合、個々の顔よりも見知らぬ顔を見かけるということが一定であることのほうに、よりフォーカスがあたっている。この「一度きり」と「幾度となく」の階層差が保たれるかぎり、認識的な変化はなくいわば通常運転である。ではその階層差が崩れるような、異常運転とは何だろうか。
「これは前にもあった」と感覚するときの、いわゆるデジャヴと呼ばれる経験で指し示される「これ」は、個別的な対象ではない。もっと漠然とした単位のものを「これ」と指し示している。それは対象ではないばかりか特定の場面や情景ですらなく、むしろ場面から場面への移り変わりや、何がしかの配置のパターンのことでさえあるのだ。つまりデジャヴは、かつては一定であった――繰り返されたことが、もはやそうではない時点から眺められている、というケースをも含んでいる。そうしたケースを、幾度となく繰り返されるだろう出来事が、あたかも一度きり起きているかのように凝縮している、と言い表わし得るだろうか。デジャヴには「どこで経験したかわからないが、すでに経験したことを今はじめて経験している」といった矛盾した感覚が含まれている。この「今はじめて」の「今」は「いつでも今」の「今」と、「一度きり」の「一度」と「一度目」の「一度」が違うように違う。「すべてが一回的である」という考えと「どんなときであれ、何かが起こるとすれば、そこはいつでも今である」という考えは重なってきてしまいがちだが、行き場を欠いた、どこで経験したかわからないこの経験は、その帰属先が「いつでも今」という全一的な現在にあることを拒んでいるかのようだ。
映画にまったく同一のショットが繰り返し出てきても、普通デジャヴは起こらない。けれど映画を見ていて「どこで見たかわからないけど、このシーンを見たことがある」と感じることはある。しかしそれはデジャヴのような矛盾した感覚を含まない。デジャヴが、現在からその延長としての過去を振り返るのではなく、この現在からは隔たっているがゆえに所在がなく、「今はじめて今が立ち上がった」という飛躍を伴うからこそのものであったとすれば、いわば「いつでもかつて」という、過去に属していることが等閑視される映像においてデジャヴ経験を生じさせるには、いかなる方法が必要になるだろうか。
声には出ずに出る言葉、いわゆる「内言」が、意味をなさずに単なる音のよう聞こえる、ということがありうるだろうか? たとえばそれが、枯葉を踏むときのようなカサカサという音にしか聞こえない、というようなかたちで。しかし実際には発せられてないのだから、そもそもそれは音声ではないわけで、この場合の「聞く」は実は比喩なのではないか。他人の声を聞くときのようには、あるいは、自分が声を発するときに自分の声が聞こえるようには、内言は「聞こえて」はいない。それは、どこからどこへ「出ている」のか?――「頭の中」で。口から外には出ていないが、それより手前には出ている。このときはじめて「中」や「内」が、頭ないし心というものが、空間化されて自らに示される。出た時点と出ていない時点との時間差が空間差に置き換えられて、「頭の中」「心の内」という架空の洞窟が作られる。
「自分が話しているのを聞く」。声を出していてもいなくても、同じように「声」として聞いているのだろうか? おそらくそうではない。たとえば本を読みながら何か言葉が浮かぶ場合、それは音声というより文字のようだったりする。「自分が書いているのを読む」?――書いている身振りなどまったくない。同様に「自分が話しているのを聞く」といっても、自分が話している身振りなどどこにもないから、それを聞いているとも言いがたい。「まるで口に出さない声とそっくりだ――だが、違う」。その場合、どうやって比較しているのか? 口には出さない「声」と「そっくり」であるとはどういうことか。たとえば、録音された自分の声が誰かの声とそっくりだ、ということは十分ありうる。また、頭蓋の中に響く、自分が発するときに聞いている自分の声ならば、何かとそっくりだ、という感想をもつことはありうる。内言をこれらの例と同様のかたちで、「何かと似ている、そっくりだ」と言える場合があるのかどうか。
思わず声に出てしまったのではなく、思わず声に出ていなかった(もしくは「思わず思ってしまった」?)。しかしその場合であっても、ただの無というわけでも、何も起きていないというわけでもない――確信はないが、経験的にはそう断言したくなる。この場合の「経験」とはいかなる類いの経験か。
「実際に声に出さないとまったく言葉が出ない者」も存在するのかもしれない。そうした者を想定する場合、生得的に内言が不可能であるような心的メカニズム(インプット/アウトプット関係)を有する者なのか、内言を必要とする社会に生まれなかった者なのか、どちらを想定しているのかは定かではないが。「とりあえず喋らないと考えられない、喋る前は言葉でいちいち考えたりしない」。その逆、「とりあえず考えないと喋れない、台詞のように一端は言葉を決めてからでないと声を発せられない」。それは、とりあえず見ないと何も描けない画家と、とりあえずイメージしないと何も描けない画家との違いとやや似ている。
話を戻して、「頭の中で」と言いたくなるのが内言のせいだとして、それが知覚されたものだと取り違えるとはどのようなことか? たとえばわたしは耳が悪くてよく耳鳴りがし、ときにそれが人の声のようなかたちをとることがある。しかしそれを内言と取り違えるということはない。それは耳のほうにあり、頭のほうにはないと思っている。それが自分ではあり得ない誰か、外からの何かだと思っているその根拠とは?
「穴」という対象と「空く」という出来事の間隙。穴。穴に穴を空ける。穴に空けられた穴を見る、穴の中の穴を。あるいは山。山に山を盛る。山に盛られた山を見る、山の上の山を。山に山を盛ると、山は山に含まれる。しかし穴に穴を空けても、穴は穴に含まれない。穴に穴を空けて穴が大きくなるとき、元の穴の大きさはどこにあるのか? 穴に穴を空けて穴が小さくも大きくもならないとき、穴に空いた穴の大きさはどこにあるのか? 大きな穴の中にそれより小さな穴を空けることのほうが、小さな穴の中にそれより大きな穴を空けることよりも実現可能なように思えるのはなぜか?
穴。穴を塞ぐ。大きな穴をそれより小さな穴で塞ぐ。あるいは、小さな穴をそれより大きな穴で塞ぐ。いずれにしても、穴で穴は塞がらない。空いた穴をさらに空けることは、塞がった穴をさらに塞ぐことに等しい。決して堆積されない「さらに」という時間がある。ひとつの穴がいくつもあるのではない、ひとつの穴の中にいくつもの穴がある。いくつもの穴はいつもひとつの穴としてしか現われてこないのに、穴がいくつあるのか、はたして数えられるか。