初出:『Anarchive n°5 – FUJIKO NAKAYA 中谷 芙二子 FOG 霧 BROUILLARD』 (2012年)
ロンドンの霧をはじめて描いたのは、イギリスの画家ターナーだと俗にいわれる。これには補足が必要で、ターナーは自然現象としての霧ではなく、それと当時発明された蒸気機関が人工的につくりだした蒸気が判別しがたく混じり合う様をこそ主題として描いたのだと正さなければならない。
事実『雨、蒸気、速度』(1844)などのターナーの絵を注意深く見れば、最初判別しがたかった、この二つが見事に描き分けられていることがわかる。それまで霧や雲などの気象の変化は絵画の主題になることはなかった。
雲は不定形ゆえにそれは対象として描きがたい。ルネサンス以降、雲は画面の余白に充填される代理物にすぎなかったのだ。すなわちルネサンス以降、遠近法の導入によって絵画が画面すべてを三次元空間の写像にすることに成功したのとすれば、一見、何も描かれていない画面の余白も、きっと何かが描かれていなければならないはずだということになる。(窓から見る光景がそうなように、窓の四角形の向う、すべてに空間がひろがっているのであれば、何も見えない白い空の余白にも何かが満たしているはずだ)。
つまり何もない余白にも目に見えぬ空気が満たされ、奥行き、厚みがある。それ以降、絵画にとって、霧や雲などの水蒸気は、この見えない空気の厚み=空間をとりあえず埋めることができる(画面の余白に導入される)都合のよい埋め草になった。いいかえれば雲(水蒸気)は形態として確定されないゆえに、同じく対象として確定されない空間そしてそれが持つはずの奥行きを示す、便利な代替物になりえたということである。
積極的に描くことなく、余白をただ曖昧、気まぐれに塗りつぶすだけで、その即興的な塗りムラが、そこにある雲を表象していると見なされ、そしてそこに奥行きが現れる。こんな便利な表象が、雲そして水蒸気だった。
こういう画面の空白の単なる補填としてではなく、雲や霧が、真に対象として描かれるようになるためには、それが名付けられ計測されうる必要があった。18世紀にイギリス在野の気象学者ルーク・ハワードLuke Howardがはじめて雲を分類し名づけ体系化したことで、雲の生成変化を構造的に読み取ることが可能になった。ハワードに刺激され、事物の形態は認識方法に依存する問題にすぎなかったことを痛感した、画家コンスタブルJohn Constableは、絵画としての形式から逸脱してでも、絵画描写を科学的な観測術として再度位置づけ直す決意をする。すなわちそれまでの伝統的な絵画形式がその形式の都合(その一貫性)のために科学的な観察を歪曲、捨象してしまうのであれば、むしろ絵画は科学的なデータとしての無数のスケッチに分解してしまうべきである。(よく知られているように、コンスタブルによるタブロー作品とスケッチ作品の間の著しい質のちがいはこの事実に由来する)。
だが、いうまでもなくルーク・ハワードによる雲の理論は〈絵画において、いかに雲を描くか〉という問題にのみ回収されてしまうものではなかった(まして〈絵画の余白をいかに表象として組織するか〉というような問題にのみ応用されてしまうものでもなかった)。
ハワードの雲の理論は、固定したリジットな輪郭をもたず流動しつづける水蒸気の生成変化を気象条件に応答する構造として捉え、把握することを可能にする形態学だった。変化を止めない現象から、ひとつの形態を型取るのは、とりあえず、まずは主観的印象だが、その印象を気象構造に対応させた構造として組み立て直さなければ雲は客観的な観察対象になりえない。具体的にはハワードは、千変万化する雲の様相を気象構造の差異に対応する四つの基本パターンの組み合わせとして記述し直したのである。ハワードはこの四つの雲の基本パターンに名を与えた。この分類=名付けによって、いままでただ偶発的に変化するだけのように見えた雲が明確に形態として把握可能となり、またその変化も構造的に捉えられるようになった。ハワードは主観的な感覚を組み立てる認識の構造を自然現象のもつ構造へ対応させることに成功したのである。形態はこの構造的対応によって、はじめて定位されうるものとなった。
ハワードが提案したのは雲のたえまない変化を形態として定位しうる(空間というよりも)むしろ時間的な構造である。ゆえに形態学の創始者ゲーテGoetheによって、ハワードの雲の理論は同時代のヴェルナーAbraham Gottlob WernerやハットンJames Huttonによる地質学と並ぶ重要な改革として正確に理解されることになった。(地質学における長大な時間スケールでの変化が、気象においては瞬時の変化として圧縮されて現れる)。ゲーテにとって形態とは、いわば自然に含まれる、無数の異なる時間サイクルで起こる(悠久長大な時間スケールから、極めて瞬間的なスケールに至るまで)生成変化の積層、干渉、落差として見出される切片、結晶だった。自然において形態は変化、成長を止めることはない。形態の秘密はそのさまざまな時間サイクルが作り出す生成変化の構造そのものにあるのであって、それを静止させる認識の側にあるのではない。むしろ人は、この形態の生成変化から構造を読みとり、自身の止まった認識こそを(時間を組み込み)生成変化させなければならない。
形態学としての雲の原理。それは絵画的表象の原理ではなく、むしろ彫刻の形成原理でこそあった。こうしてゲーテの形態学はウィンケルマンJohann Joachim Winckelmannに代表される古典的な彫刻形式=静止した形式に変更を迫るものとなった。ウィンケルマンが扱ったのは(彼の理論の上で絵画に対する彫刻の優位があっても)いずれ表象の形式にすぎない。静止する形式を必要とするのは人間の認識の都合(つまり欠陥)にすぎない。だがゲーテの形態学は(人間の認識を含めて)変転しつづける現象そのものの構造に迫ろうとした。すなわち彫刻(その形成)原理としての形態学、彫刻原理としての地質学そして気象学。ここで彫刻の形式は時間形式として捉え直される。つまりレッシングGotthold Ephraim Lessingが行ったジャンル弁別に反して、彫刻こそは時間芸術である。正確にいえば、彫刻の形式=形態形成の原理こそが(主観的形式にすぎない)時間を生みだす。
雲や霧などの細かい水の粒子の分布、濃度の偏差を形態=対象として扱うことは、当然、対象そのものに対する感受性をも変える。対象は固体ではない、さまざまなパラメータの重なりに見出される偏差が確率的に現象させる偶有的存在にすぎない。濃度(ポテンシー)という偏差が力(エネルギー)であり運動を産む。形態の知覚はこの運動過程にだけ成立する。つまり『何かを見る』という知覚もまた運動であり過程の一部である。この意味で形態は客観より、むしろ主観に属すようにも現象する。いや、それは、主観そのものこそ、この(統計)力学的過程によって成立する確率的な存在にすぎないからであった。主観とは、いわば形態の輪郭を引き寄せ、まとめているところの重心=焦点である。
たとえば、その意味で、揶揄としてつけられたはずの「印象派」という名称は的確だった。「印象派」は刻々と変化する事象を、光、色彩の偏差を含めて、さまざまな要素の濃度の差として表現した。そこに現象する形態は、それを見る側の網膜上の効率(都合=選択)に依拠していたにすぎない。
制限された要素とその分布、濃度(ポテンシー)によって、さまざまな概念の移行、連合を扱おうとする集合論の発展は、当然、19世紀の産業革命と平行している。不均質な分布は均質な状態へ向かう。(そして向かうべきだとされる)。不均質な偏差が、異なる概念(あるいは実際の事物の性格)の差異、衝突、闘争として現象する。それこそが力、権力が生じる源でもあった。こうした力学(統計力学)が19世紀以降のテクノロジー、政治を支配することになったのは周知の事実である。形態学はこうして政治的な力学へも接続され展開する。「印象派」も「キュビズム」(そもそも「キュビズム」こそは表象の形式ではなく、形態学として理解されるべきだ)もこの流れに沿っていた。 と言えるだろう。(たとえばフェリックス・フェネオンFelix Feneonはおそらく、この流れに自覚的だった稀有な批評家である)。
20世紀初頭、近代日本の文学そして文化のあり方を決定することになる文学者、夏目漱石(1867-1916)は、文学の形態学『文学論』(1907))を構想している。漱石の理論において文学とは、分散、離散して存在するほかない、ちりぢりの感覚、関心、感情 ─── 漱石はそれをfという──── の群れに焦点F(客観としての概念)を与え、密度の偏差をつくりだし、運動を組織する術だった。漱石は、文学の諸形式の違いは、このfとFの力学的関数として記述できるものと考えた。
すなわち,まとまりのない「主観f」を「客観F」へと成長させ、統御する技術、それが文学である。近代国家の成立過程にあった日本において、当然のことながら漱石の文学理論はそのまま国民国家(nation state)の成立過程への考察と重なっていた。漱石にとって、当時形成途上にあった国民国家とはまさに、諸個人の離散した精神、ちりぢりに分散してしまうほかない感覚、関心の群れに焦点を与え、いかに、ひとつの集合的な主観(つまり国民精神)として組織するか、という問題群──極めて人為的な試みにほかならなかったのである。
客体と主観の区分はあらかじめあるのではない、確率的に形成される関数こそが、それを定位するのだ。漱石は、その有様(主観と客観の混じり合うさま)を、水蒸気が示す、さまざまな様相として描写する。全編、芸術理論で埋め尽くされたような小説『草枕』(1906)では、徴兵から逃れた画家が、地方の温泉宿の、温泉の湯気の中で、ウィンケルマンからレッシングにいたる西洋美術理論(客体と主観の固定された二分法)を超克するヒントを悟る。主観も客体も、この湯気の中での知覚のように、さまざまな感覚の確率的な分布から立ち現れる現象的な様相にすぎないのだと。その関係を止まった形に固定し統制するのは(国家に代表される)政治的な制度、権力だろう。(そして漱石は、こうした国家権力のあり方を、蒸気機関車に喩えて記述している)。
それから20年後、日本に西洋近代彫刻を定着させようと苦心していた“国民的”な彫刻家、高村光太郎(1883〜1956)はこう書く。「彫刻家は物を摑みたがる。つかんだ感じで万象を見たがる。」「彫刻家の触覚は霧を破ろうとする。そして又霧は霧である事を確かに触知しようとする。」(『触覚の世界』(1928))、すぐにわかるように、ここには転倒がある。(みずから国民的な使命を任じていた)この彫刻家はいまだ直接摑んだことのない(あると仮に想像されているだけの)対象をつかみ、客体化しようと力を尽くす存在である。 実際に彼の手を包んでいるのは霧であるのに、彼はその曖昧でとらえどころのない霧をたんに霧にすぎないと確信し(言い切り)、それを払いのければ、あるやも知れぬ本質的な存在(=国民精神?)を直接、手に摑むことができるだろうと欲望するのである。彫刻家とは、ここで想像的な存在に形を与える者、つまり空虚なモニュメントをつくり示す者、まさに政治家(ファシスト)の戯画像とさえなっている。
蒸気機関が水蒸気の運動を自在にコントロールするように、大衆(マッス)を誘導すること。特性をはぎとられ、均質な分子(労働者、消費者、国民)に分解された大衆という抽象物、この集合こそがあらゆる実体的(に見える)制度の形態を構成する。
その表現が選挙であり、ファシズムであり、世界大戦でもあった。(毒ガス、塹壕、潜水艦による全面戦争、すべての市民を巻き込んだ総力戦とはまさしく“濃度”の闘いだった)。こうした力学が支配する状況で、もし芸術が、(調和という観念によって)すべてを固定し静止させる形式の実現を大言壮語するのであれば、その衝動はファシズムの衝動にこそ,近接してしまうといえるだろう。
「未来派」はあからさまだとしても、「キュビズム→構成主義)の流れは比喩ではなく、現在喧伝される社会構成主義の流れと直結してもいる。100年の時間差をもって、国家や国民あるいは主体、人間という現象が、集合として構成されうるものであることが政治的通念として定着したとも言えるだろう。ルーク・ハワードが雲の分類をしたように消費者の志向、動向はパターンとして(amazonが消費者の関心を分類するように)分類される。彫刻や絵画などのカテゴリー(概念)もまた、amazonのカテゴリーにも記載されるような分類つまり分子の集合の偏り、濃度にすぎない(つまり漱石のいう客観=概念Fである)。だが、国家も貨幣も人間も(あるいは芸術も文学も)、ひとたびそれが概念として名指され、成立すれば、その概念(カテゴリー、ジャンル)それぞれは、その同一性を確信し、その持続をもとめることになるだろう。これこそが力学が利用しようとする(あるいは利潤を生み出す)力=ポテンシーそのものでもあった。
雲の形態と同じように、その差異は内実=質の違いを意味せず、濃度の違いとして確率的に現象するだけの幻にすぎないかもしれない。だが政治家なら誰でも知っているように、にもかかわらず、こんな確率的に生みだされた形態が、それぞれの形態として与えられた同一性が維持しようとして働かせる、倫理的にもみえる抵抗(言いかえれば、雲の形のように実体的に現象する夢)こそ、権力そのもの、暴力の起源そのものへとも逆転してしまうのでもある。この偏差こそが、格差を産み出し、その差異こそが、インタレスト(関心つまり利潤)そして力を生み出す。
夏目漱石の門下生の文学者であり、かつ著名な物理学者でもあった寺田寅彦(1878〜1935)は文字通り統計力学にもとづく形の物理学を探求したことで知られている。寺田はたとえば物質の表面に走る亀裂、ひびに、自然を構成する決して線的ではない多元的な時空の構造その複雑性を読み込み(振り返れば、亀裂、ひびは漢字創成の起源でもあった)、あるいはもっともよく知られた随筆のひとつ『茶わんの湯』(1922)で、寺田は、小さな茶わんの湯(そして湯気)の振る舞いに、まさに、霧、雲、雪、竜巻、気流、海流、季節風にいたる気象現象(その森羅万象)のすべてが、その原理とともに発見できることを、簡潔かつ典雅な文体で著した。
第一に、湯の面からは白い湯げが立っています。これはいうまでもなく、熱い水蒸気が冷えて、小さな滴になったのが無数に群がっているので、ちょうど雲や霧と同じようなものです。この茶わんを、縁側の日向へ持ち出して、日光を湯げにあて、向こう側に黒い布でもおいてすかして見ると、滴の、粒の大きいのはちらちらと目に見えます…(中略)……すべて全く透明なガス体の蒸気が滴になる際には、必ず何かその滴の心になるものがあって、そのまわりに蒸気が凝ってくっつくので、もしそういう心がなかったら、霧は容易にできないということが学者の研究でわかって来ました。その心になるものは通例、顕微鏡でも見えないほどの、非常に細かい塵のようなものです、空気中にはそれが自然にたくさん浮遊しているのです。
寺田寅彦『茶わんの湯』、1922[*1]
1934年、日本が国家を挙げ戦争準備に突入しつつあり、世論のすべてが来るべき戦争準備へと方向づけられはじめていたとき、そこで繰り返された「国防」という概念に対して、寺田寅彦はやんわりと物理学の立場から批判をしている。寺田が書いたのは表向きに観察される、自然の唐突な変化、つまりカタストフ(多くの場合それは災害となる)がいかに人為的な認識の転倒から引き起こるか、という批判である。
文明が進むに従って人間は次第に自然を征服しようとする野心を生じた。そうして、重力に逆らい、風圧水力に抗するようないろいろの造営物を作った。そうしてあっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻を破った猛獣の大群のように、自然があばれ出して高楼を倒壊せしめ堤防を崩壊させて人命を危うくし財産を滅ぼす。その災禍を起こさせたもとの起こりは天然に反抗する人間の細工であると言っても不当ではないはずである、災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやが上にも災害を大きくするように努力しているものはたれあろう文明人そのものなのである。
寺田寅彦『天災と国防』、1937
言うまでもなく寺田にとって自然の変化は不可避である。その変化は必然であって、そうであるかぎり決して予期せざる惨事とはなりえない。災害とは、人間の認識そして、それに基づく制度が、その変化への対応をまちがえるゆえに引き起こされる。すなわち災害とは自然の変化を許容せず、人間の認識に合わせた制度、形態として自然を固定しようとしたことによって、もたらされる惨事にほかならない。無理に固定された制度や形態が崩れるのは当然のごとく必然である。
制度が統制し固定しようとする領域が大規模になればなるほど、その被害は大きくなる。防災という概念に含まれる、このパラドックスは(彼の師である漱石がそう考えたように)さまざまに分散した関心、感覚、出自をもった人民をひとつの国民(という形態)として組織しようとする国民国家のあり方にも、そのまま含まれるだろう、パラドックスでもあった。すなわち寺田は「国防」つまり戦争を防ぐという名目で行われる国家統制のあり方をも、防災という概念のパラドックスを指摘することを通して批判していたわけである。国防という概念(そしてそれに伴う、国家統制)こそが、戦争を必至とし、戦争を生みだす原因ともなる。
もう一つ文明の進歩のために生じた対自然関係の著しい変化がある。それは人間の団体、なかんずくいわゆる国家あるいは国民と称するものの有機的結合が進化し、その内部機構の分化が著しく進展して来たために、その有機系のある一部の損害が系全体に対してはなはだしく有害な影響を及ぼす可能性が多くなり、時には一小部分の傷害が全系統に致命的となりうる恐れがあるようになったということである。
寺田寅彦『天災と国防』、同前
寺田寅彦のこの論は、のちに「天災は忘れた頃にやってくる」というテーゼになって広く流布するようになる。(天災とは、自然の生成過程=構造と人の認識の構造のずれこそが作り出すカタストロフである。だから天災はつねに忘れた頃にやってくる)。その経緯は、寺田寅彦に学んだ、物理学者であり詩人、随筆家でもあった中谷宇吉郎(1900〜1962)によって、改めて明らかにされることになる。
雪の結晶形成の過程を構造(ナカヤ・ダイヤグラム)として明らかにし、さらに世界初の人工雪を作り出したことでも知られる中谷宇吉郎にとって、形態とは(対象そのものにあるのでもなく観察者の主観にあるのでもない)、まさに多様に変幻する気象条件の中での(観察者と対象との緊張した)一期一会の機会こそを構造化するものだった。
雪の結晶(同じ形成原理をもっていたとしても、同じ形態は二度と現れることはない)を見ているのは、いま、そのときの観察者、自分だけであり、二度とそれを誰も見ることはない。(言いかえれば自然の姿のほとんどをわれわれ人間は見落とし、また見たとしても認識できないのである)。
たとえば人々が思い浮かべるような、理想的に完成された(写真家が好むような)雪の結晶はほとんど滅多に現れない。中谷宇吉郎が雪の研究をはじめる契機に, W. A. べントレーBentley(1865〜1931)の 写真集「snow crystal」を見たことが大きな刺激になったことはよく知られている。けれど中谷はベントレーの写真に撮られているような、完全にみえる雪の結晶が、実際は滅多に現れないことにこそ興味をもった。自然のプロセスの中ではむしろ複雑に変態した、一見失敗したような、畸形とも思われる(多くの人に見捨てられ、忘れ去られてしまう)雪の結晶のほうがはるかに多いのである。ナカヤ・ダイヤグラムはこうしたミュータントの形成される過程こそを構造として明らかにした。物理学者、中谷宇吉郎にとっては雪の失敗、奇形性にこそ多くの情報が含まれている。[*2]
零下50度の凍える実験室の中で、雪の結晶が形成されていくプロセスを息をのみ、目撃する。いま出現しつつある、そのまたとない雪の形態のユニークさ(繰り返せば、それはときに畸形の雪にも見える)に現れているのは、まさに二度と同じことが繰り返されることのない、その場の気象条件、空間そして時間のコンディションである。けだし雪の形態とは、無数の自然のパラメータの関数、さまざまな条件の出会い(干渉)が作り出す結実であり、その二度とない場の条件、様相のすべてが、そこに形態の固有性として記されている。(世界的に知られたナカヤ・ダイヤグラムは、雪の結晶が気象条件によって異なる形態として生成変換される構造こそを明らかにしている)。
それゆえ宇吉郎は、雪の結晶は、「天から送られた手紙」であると著した。すなわち雪の結晶とは、ひとつの文字である。(かつて、四つ目の怪物、蒼頡が雪の上の動物の足跡から漢字の原理を発見したように)、宇吉郎は雪の結晶そのものが、変換構造を備えた、文字として成立していることを見つけたのである。
中谷芙二子によって霧の彫刻が生み出されたのは1960年代も末期である。
ひとたび、自然における形態原理(形態は固定されたものではなく、観察者と対象とが作り出す、決して固定されない構造である)を知ってしまうならば、時間を静止させてしまう形式としての美術になじむことは、むずかしいはずである(まして中谷芙二子のように幼少の頃から、雪の結晶という、自然が産み出す類い稀なる結晶生成過程の解明に向かう父、宇吉郎の姿に身近に接していたれば、なおさらだっただろう)。
ポール・クレーがそう考えたように、絵画を描く過程で色彩を重ね合わせたり、線をつないでいくプロセスは確かに自然における形態形成のプロセスに近似してはいる。(絵を描くことは出来事であり、だからクレーにとって絵を見ることは、画布に積層されたその生成過程──時間に沿って、目で思考することのはずであった)。けれど、芸術作品は最後にそれを裏切り、自然の時間を停止させてしまう。
宇吉郎の探求にもかかわらず、多くの人の目に、雪の結晶がこの上なく魅力的に映ったのは、はかなく消えていく雪が、にもかかわらず、ときに自然形態であることを超越するような、理念的に完結した形態=普遍的な構成composition を保持していること、にあったのだとすれば────その賛美はただの美学的錯誤にすぎなかったのかもしれない。つまり、雪の結晶に見いだされる形態の明晰さ、強度は、それだけを選択して見ようとする人間の理念を反映しているにすぎない。だから宇吉郎はこんな指摘をしている。
この点で顕微鏡写真の発達はかえって、一時科学的な雪の結晶の研究を阻がいしたとも言い得るのである。このことはドイツの気象学者ウェーゲナーもいっていることであるが、面白い一つの心理現象である。つまり一口に言えば、顕微鏡を見て、美しくないものは写真に撮らない。模様的に美しく、しかも平面的なもののみを撮る傾向があるために、一般の人々に雪の結晶がそういうものだと思い込ませるようになったのである。それは別にベントレーのみの負う責任ではないのである。
中谷宇吉郎『「雪の結晶」雑話』
やがて結晶も溶けて消えていくという自然の終わりなき生成過程は、雪の結晶が写真に記録された途端に、完結され(その終わりなきプロセスは忘却され)、事実、すぐさま絶好の装飾模様として複製され利用されはじめてしまう。
Ernst Haeckel(1834~1919)の「自然の芸術的形態」Kunstformen der Naturがそのタイトル通り、すぐさま装飾芸術に応用されたように。そしてヘッケルに大きな影響をうけた元鍛金家カール・ブロスフェルトKarl Blossfeldt(1865〜1932)の植物写真がまさに様式として選択された自然形態にすぎなかったように。ブロスフェルトと同年生まれのベントレーの撮影した雪の結晶も、芸術様式として入念に選択、演出された形態だったわけである)。
形態として捉えられた雪の結晶────それは人の理想、観念の反映物──すなわちObjecthood(美術批評家マイケル・フリードがミニマル・アートを批判して使った用語を使うならば)にすぎない。
Joseph Albersに基づいた色彩や構成の演習からはじめ、やがて原生生物、細胞分裂や、植物の根の構造など有機体の構造をモデルにした仕事へ移行するという過程を経て、アーティストのキャリアをはじめた中谷芙二子が、50年代の終わりから60年代にかけて、物質代謝を作品に取り込む試みを(同じく自然現象における非可逆的な時間プロセス、さまざまな時間サイクルの干渉に注目したロバート・スミッソンRobert Smithsonたちよりもはるかに早く)はじめたのはいわば必然だった。
時間とともに、すぐさま腐敗しはじめるキャンバス。自然の物質崩壊の過程を受け入れる作品。彼女は、それをコンポジションではなく「デコンポジション」と名付けた。この芙二子の未完のプロジェクトに含まれたのは、雪という現象の起こる過程ではなく、結晶という理念的形態の完結した美にのみ、人々の関心が集中されてしまうこと(美学的な受容)への反発と、同時に、当時そろそろ現れつつあったミニマル・アートへの異議も含まれていたにちがいない。
自然過程のほとんどは、むしろ形態として明確ではなく整合的に捉えられるものではない。それは通常の美学からすれば、むしろ混乱に満ち、雑然とし、ノイジーにしか見えない。形式は完結せず、たえず自ら逸脱し崩壊していくようにすら見える。つまり自然のほとんどは人の目に美しくはない。(寺田寅彦が著したように、ゆえに人間は自然を統御しようとし、逆説的に自然を破壊し、みずから天災を招いてきた)。
むしろ、この自然プロセスに含まれる、人の目にとっての混乱、人の目が見損なう逸脱こそが、創造的でありうるし知的探求の対象たりうる。創造とは、人の認識にそって自然を形態として整えることではない。それに対峙し観測する人間の認識こそを転換させることにある。
60年代のはじめの一時期、中谷芙二子は、タブローにこの終わりなき生成変化の過程をそのまま重ねるように、あらゆる色相を重ね合わせたあげく、タブローがburnt siennaの赤土色に覆われてしまう(いわばタブローが土に還元されてしまう)という仕事を続けていた(だが、この最後に現れた大地は、ところどころテレピンで色が拭い取られ、いかなる形態からも解放された物質が、粒子にまで分解し、空に飛散していくという過程をも暗示して終わることになっていた。その色が拭き取られた空隙に、かすかに霞か雲か、が浮かびあがるようにも工夫されていた)。
事物の生成変化(雪の結晶は水の生成変化のそのほんの一瞬の出来事にすぎない)を固定せずにそのまま受け入れる=扱うこと。芸術家と科学者の一種アナーキーなアソシエーションの組織E.A.T.の活動と出会い、その重要な活動メンバーになった中谷芙二子が、技術者たちとの恊働のチャンスを得て、じきに霧の生成装置の作製に導かれていくことになったプロセスもまた必然であった。
霧の彫刻。この作品にこそカウンターカルチャーの本質(現在、いったい誰がそれを理解するだろうか?)が示されている。中谷芙二子の作り出す、霧に、何ものかを曖昧にしたり、神秘的に見せる効果を見出すのは大きな誤解である。建築家たちの多くは、相変わらず(中谷の考案した)人工霧を使って、自らの作り出した、あからさまなオブジェクトの姿を隠したり、また建築の周囲の余白を霧によって埋め尽くそうと企てる。彼らにとって霧の彫刻はたんに、客体の恣意性を隠蔽する煙幕の代用にすぎない。
この霧の効果のみを「神秘的である」など、と賛美するのはさらなる欺瞞である。そんな神秘的な効果ならば、かつて霧に、現実を超えた想像の世界、主観的な記憶を投影できるという効果を見出した、コローJean-Baptiste Camille Corot(1796~1875)のような画家(“Morning, Fog Effect”などの作品に典型である)が抱いたロマンティックな幻想(現実逃避)の繰り返しにすぎない。つまりそれは画面の余白を埋め尽くす絵画的効果にすぎない。(水の生成変化を、山岳や地形の生成原理に重ね合わせ、さらに絵画形成形式────インクを水で生成変化させる――の原理として普遍化した中国の山水画家たちは、ゆえに、雲や霧という効果のみによって形態を暈かす──つまり水蒸気を多用することによって、神秘的な奥行きを演出することの安易を批判してもきた、彼らにとって、霧はむしろ岩山のように堅固であるべきだった)。
中谷芙二子は決してとらえどころのない彫刻=霧を作ったのではない。中谷はあくまで「霧を明確な物質として発生させる装置」を作ったのである。中谷芙二子の霧は、極限的に絞り込まれたノズル(口径わずか16ミクロンの孔から70気圧で噴射される水が、その真上に据えられた針に衝突して自然の霧に等しい20~30ミクロンの霧粒に砕かれる)によって、連続量としての水の流体を無数の互いにクリアに独立した水の粒子に分離、分解することで得られる。むしろ高精細度High Definitionの水である。それぞれの水の粒子が粒子として独立しているからこそ、それら無数の粒子は、それぞれ単独に空気に浮かび、漂うことができる。その群れが、霧とよばれる現象として人に感知される。
中谷芙二子は彫刻という現象を作り出す力そのものを奪取=脱構築したのだ。(ロバート・スミッソンなどのアースワークはその力を自然の非可逆的な過程に根拠づけようとしたのだが)。それは形態の背景ではなく、また形態の余白ではない。形態の形成原理そのもの、あるいはその過程そのものの構造化である。彫刻における点描派?いや、むしろ、これは古代ギリシャの哲学者エピクロスのその失われた哲学の復興とさえ、言うことができよう。
そして中谷芙二子はただ水を微粒子に分解し、大気に漂わせ、地を這わせ、木々の間を通りぬけさせ、人と人の間を結び、あるいは遮り、包み込んだわけではない。この運動する形態の予期し難さは、それを見る人の曖昧な認識のむしろ投影=幻影にすぎない。(実際のところ、芙二子のテクノロジーはこの霧の運動を計算し、誘導もしているのだから、そこに曖昧さは存在しない)。だからわれわれが見出す霧の運動とは、精神と物質の関係そのものの運動、ゆらぎ、そのものである。繰り返せばそこには、それぞれが独立した無数の水の微粒子の(それぞれは曖昧さをもたず、クリアで軽快な)さまざまなる運動があるだけなのだ。エピクロスがそう考えたように、そのさまざまな微粒子のとる、曇りの一切ない、(数えきれないほど、無数の)運動の軌跡にこそ、われわれ人間の精神が自由であり、かつ意志を持つことの、本当の秘密がある。
思い返せば、1960年代大衆文化の拡大、そしてそれに平行するベトナム戦争へ呼応するように、多くの作家たちが陽炎あるいは影のように環境(特に好まれたのは青空)に溶解しはじめる人物像をそのままトレースし、あるいは描いた。(その先駆はもちろんラウシェンバーグのブループリントであり、またイブ・クラインの人体測定であり、そして日本でいえば高松次郎(1936〜1998)の影のシリーズが知られている)。ポップアートが、個々の人格が解体され、統計的な無数の分子の集合(mass)へと還元されてしまう、後期資本主義と呼ばれる時代へのアイロニカルな応答だったとすれば、青空に浮かぶ空あるいは雲のように青空にとけ込む事物が、この時代もっともポピュラーな主題になったのは、いかなる現実存在(existence)も空にある雲のように不確実であり、幻想と現実の区分も、観測が依拠する枠組みにもとづく恣意的な区分にすぎない、という懐疑[*3]に裏打ちされていた。
しかし中谷芙二子は「雲」を決して、現実と非現実が未分化な不確実性の象徴とは見なさなかった。何度も述べてきたように、こうしたロマンティシズムあるいは神秘主義こそが、人間の創造性、批判力を奪うのだから。水の曖昧な連続量= mass を、明確に分離した粒子にまで分解した上で、水の粒子それぞれの運動を解放することによって、明晰極まりない霧の運動を組織したのである。
霧に、神秘やうつろいゆく世界のはかなさを託すこともなく、芙二子はこうした美学的な欲望=力そのものを解体してしまう装置を作った。彼女がはっきり摑んだのは、事物の生成変化そのものを成り立たせる構造であり、その装置が解放したのは、いかなる固定的な形式をも、ブレークスルーする、相互に分離された無数の微粒子の集合が作り出す自由な生成変化の能力、活動力そのものである。それは当然、人間が人間でありうる可能性──その条件としての自由な活動、そのありうべき在り方とも重なる。霧、いや水の微粒子たちの群れが作り出す運動、それは確乎とした自由意志そのものである。ペプシ館を包囲する無数の水の粒子たちの群れ。トリシャ・ブラウン・カンパニーのダンサーたちに対峙しダンサーたちを先導して踊る水の粒子たち。昭和記念公園で子供たちを追いかけ、子供たちから追いかけられ、大地のくぼみに潜み、不意打ちする水の粒子たち。これこそが自由な精神である。
中谷芙二子がE.A. T.の活動を展開し、自らの活動のみならず無数のアーティストたちの活動の(まさに水の粒子たちが作り出す運動のような)ネットワークをサポートする組織を立ち上げ、プロセスアートと名づけたのも、こうした由縁である。(プロセスアートと平行し、芙二子が実験映像の拠点として立ち上げたビデオSCANの活動も含め、こうした中谷芙二子の活動は彼女の父宇吉郎が、科学はただ対象を研究するだけではなく、観察過程において対象が現れる、その観察過程そのものこそを構造として研究し、記録し定着させる必要があるという認識のもとに、芸術家、文化人のネットワークを組織し、さらにドキュメンタリー映画制作組織“岩波映画”────第二次大戦後の日本映画において、この組織はイタリアのネオリアリズムに比肩するような活動と成果を挙げた────を発起人として立ち上げた業績をも受け継いでもいる)。
霧に神秘はない。曖昧なのは、われわれ人間がそこに見出そうと欲する(観念としての)オブジェクト自体である。霧は確かに人が抱く、さまざまな観念(あるいは幻想)と、その不確かさを露呈させる。だからこそ、その曖昧さに溺れるのではなく、霧こそを、霧を形づくる無数の粒子のつくりだす軽快な運動こそ明視しなければならない。そして、霧(に投影した自らの幻想、観念)に惑わされ視界を曇らせている我々の目こそを、晴らさなければならない。
ノズルの先からいま解放されつつあるもの。それはいかなる権力をもすり抜け、飄々と舞いつづける自然の活動力そのもの。あらゆる権力にも抵抗する自由意志そのものである。数えきれないほど無数の水の微粒子たちが、作り出す自由な連帯association。