初出:InterCommunication No.46(Autumn 2003)
カリスマがカリスマであるのは、彼の目指す目標が何であるのか、誰もはっきり知らないにもかかわらず、当のカリスマがそれを一分の曖昧さもなく、はっきり確実に把握していると、その周囲の人間みなが理解しているゆえにである。カリスマはつねに合理的、論理的にしか行動しないし、発言しない。それがそう見えないのは彼が従う規範が見えないだけである。 ゆえに問題は、彼をカリスマと認知しえない人間たちに囲まれたときに、発生する。彼らは自分の思考を拘束しているものが何であるかを自覚せずに、その無意識的な枠組をカリスマにぶつけようとする。カリスマは答える。「ちがう、ちがう、ちがう、ちがう」。しかし質問した人間はいったい何が否定されたのかがわからない。なぜなら、彼は自分が発した質問に含まれた意味をそもそも知らないのだから。 科学者の世界にカリスマと呼ばれるほかない人間が存在してしまうのは、ある意味で不幸なことである。個人の人格に帰せられる科学というものがありうるはずがない。しかし合理的であることを誇る科学と呼ばれるものそれ自体が、その合理の根幹である最終目標を世俗的な枠によって決定されていたのだったとすれば、どうだろうか。当然、なお合理的であろうとすれば、科学者あるいはエンジニアはその合理を決定する基準の可変性を自覚しなければならないことになるが、一方で、例えば合目的的であることを本質とするテクノロジーが、その目的を可変的だと措定することは、ほとんど、その合目的性の放棄のように受け取られかねない。言い換えれば、ここでなお、科学そしてエンジニアが合理的(かつ合目的的)であろうとするのなら、それを律するはずの根本原理、最終目的を(従来のそれに依存することなく)、そのつど自己決定しなければならないということになる。科学者にとって、このように理論枠が可変的であるという意識は、そのまま、如何に一つの理論枠を選択するかという問題に置き換えられる。
エンジニアや科学者は、テクノロジーは一つの方向しか進めないのではないこと、その方向は絶えず変えられるし、あらゆる方向に向かっていけることを知っていなければならないのです
ビリー・クルーヴァー「E.A.T.──芸術と科学の実験」展カタログ
ここで方向を変えるのは誰であるのか。あるいはその方向を決定するのは誰であるのか。その職業的本性においてエンジニアが、それを自己決定することはありえない。エンジニアは与えられた目標に正確に狙いを合わせ、与えられた諸条件をもっとも効率的、合理的に組織し、問題を解決することこそを仕事の本質とする(自分の都合で目的を変換することなどは許されない)のだから。そこに個性に基づいた決定の入る余地はない。
E.A.T.を率いてきたビリー・クルーヴァーが科学者として正真正銘のカリスマであるのは確かだとしても(マンハッタンのギャラリーに彼の姿が現われれば、周囲の空気は一瞬で変わる。あるいは映画『バック・トゥー・ザ・フューチャー』のマッド・サイエンティスト、ドクのモデルはビリー・クルーヴァーだとされる──カリスマ性においてはビリー・クルーヴァーの方がはるかに上だが。ビリーは言う「こんなふうに有名になるなんて思いもよらなかったよ」)、にもかかわらず、彼ほど芸術家の立場を敬い、その必要性を重んじる人間はいない。なぜなら、芸術だけが、その存在理由を自己決定する力を持っていると、彼が考えているからだ。彼は若いアーティストにこう教え諭す。
芸術家は決して、面白さだけで絵を描いたり、文章を書いたりしない
『ビリーのグッド・アドヴァイス』[*1]
ノーベル賞を狙えるほどの優秀な科学者(そしてエンジニア)としてスウェーデンからアメリカに渡ったビリー・クルーヴァーは、のちにE.A.T.の活動へとつながる芸術家との協同作業をはじめた理由を質問されて、「いいかい、その当時のアメリカではね、エンジニアというものはね退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈だったんだよ」、と退屈を六回も繰り返し答える。 一九二七年にモナコに生まれ、スウェーデン王立工科大学で電子工学を専攻し、また、その学生時代にスウェーデン映画協会連盟を設立(二千名の会員を集めた)、自身の研究を自分自身で『電磁場の中の電子の動き』という精度の高い科学映画にまとめていたビリーにとって、最新の科学はもはや電子の動きそのもの、あるいは映画が生み出す時間そのもののように非線形的で不確定的に揺れ動くものであるはずだった。にもかかわらず、現状において、科学が一方向的に統御されてしまっていたのだとすれば、それは公的な計画つまりは政治と呼ばれる世俗的な都合が支配する管理統制の結果以外の何ものでもなかった。けれどコペンハーゲン解釈(量子力学の)を政治家や官僚が理解し取り入れるなどということは、土台ありえない話だった。 一九五四年、二十六才のときにアメリカに移住。アメリカ映画そして文化を愛していたビリーは、当初ラジオ局あるいはベル研究所への就職を考えていたというが、時まさにピークだったマッカーシズムに巻き込まれることを忌避し、バークレーでPh.D.の取得に専念する(二年七ヶ月の短期間でPh.D.を取得)。アメリカの文化状況はビリーを絶望させるに充分だった。特にエンジニア、科学者の置かれている位置は退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈。ただただ政治的な利用価値、実用性の支配だけがあった。 こうして一九六〇年に、ティンゲリー(一九五三年、渡米前に立ち寄ったパリで出会っていた)によるMoMA(ニューヨーク近代美術館)中庭での大掛かりな展示作品制作を手伝って欲しいという相談がおとずれたとき、すでにビリーにとって、のちにE.A.T.の活動へと継続していく芸術家との協同作業に飛び込む体勢はほとんど整っていた。 《ニューヨークへのオマージュ》というタイトルで知られているこの伝説的な作品は二十七分間のお披露目パフォーマンスの後、プログラムされた通り崩壊し炎上した。ティンゲリーはジャンクの機械を組み立て、不思議な運動を構築するのには驚くべき能力を発揮したが、この作品を崩壊させる仕掛けを考え出すにはほとんど無力であった。ビリーが受け持ったのはジャンクを集める際の同乗運転手としての役とともに、この崩壊するプロセスの設計を受け持った。アーティストであるティンゲリーが構築を行ない、崩壊をプログラムしたのがエンジニアであるビリーだったというのは、極めて示唆的である。スイッチを入れた二十七分の間に、ビリーの設定したいくつかの装置は作動せず、作品に近づき修理しようとしたビリーを、ティンゲリーは「触るな」と止めたという。 ビリーの回想によれば、ビリーはここで出来事というものの本質を学ぶ。すなわちエンジニアは通常の仕事では完全性(つまりは目的に確実に到達すること)が求められるが、芸術作品では上演が優先される。つまり必ず時間というリミットがあり、たとえば締切が来れば、不完全であれ上演しなければならない。空間、時間に展示するというリミットがある限り、必ず不完全性つまり予期しがたき事態は発生する。この予期しがたき出来事の不確定性をいかに受け入れるか。結局のところエンジニアや科学者に試されるのは、その不確定性を許容し納めることのできる認識のフレーム、技術的な度量である。ビリーにとってアーティストとはそのリミット、つまり「芸術作品がどこから始まり、どこで終わるのか」、その枠を決定する者のことをいう。
「 E.A.T.── Experiments in Art and Technology という名称は、税金対策のために組織を非営利団体として登録するときに、弁護士が役所に通りやすいよう適当につけた名前で、それ以外に深い意味はない」。ビリーはそう語る。「特にExperimentsという言葉はメンバーの誰もが気にいっていなかった」。実験的、という言葉はエンジニアにとってもアーティストにとっても決して褒め言葉ではない。作品が未完成であることを弁解する方便にすら聞こえる(まさに弁護士は、常識的には到底理解されえない制作物を社会的に公認させる方便としてこの名をつけたのである)。「アーティストは決して実験をしない。作品はつねに確定されたものとして、そこにある」。ティンゲリーが決定したように、あるいはジョン・ケージ、デュシャンがいつも厳格にそうしてきたように。
まして「E.A.T.の実験は何を残したと思いますか」[*2]という質問は二重にナンセンスである。ビリー・クルーヴァーを知っている人間ならば、あるいはE.A.T.の活動を知っている者ならば、彼がなんと答えるかはすぐさま予想できる、彼はきっぱりこう答えるはずだ。「NOTHING」。
そもそもE.A.T.の活動で、何が起こるかわからない、という理由で作品が作られたことは一度もなかった(多ジャンルの表現を並列、遭遇させれば何かが起こるだろう、という甘えた幻想に支えられたコラボレーションと呼ばれるものほどE.A.T.の活動と遠いものはない)。
たとえばジョン・ケージの行った作曲の核心は、予期できない出来事の「予期しがたさ」をそのまま保持したまま、それをコントロールすること、つまりは偶然を必然として固定することなしに、その不確定さを不確定なまま確定することという難題だった。ビリー・クルーヴァーがジョン・ケージ、ラウシェンバーグ、ティンゲリーとの協同作業で受け持ったのは、まさにこの不確定性を技術としてコントロールすること、偶然のプログラミングの確立だった。たとえば中谷芙二子の霧の彫刻でもっとも驚くべき点は、美術史的にイメージとして確定できないものの代名詞ですらあった雲、霧といった気象の不確定な変化を、詳細にコントロールする方法を開発してしまった点にあった(空気中の温度の微妙な分布をセンチメートル単位の高低差の精密さで調整するなど、湿度、空気の流れなど、あらゆる微細なパラメータがプログラミングされる)。
「E.A.T.の実験が何を残したか?」という質問への答えが「NOTHING」でしかありえないもう一つの理由は、いうまでもなくE.A.T.の活動が過去形ではなく、現在も継続中であることにある。
今回来日したビリーは日本で会った若い芸術家たちに「困ったことがあればすぐ電話しなさい」とE.A.T.事務所の名刺をにこにこしながら渡していたが、そうした直接的なエピソードを介さずとも、継続中であることの意味はE.A.T.の活動の特性を理解すれば容易に了解できる。そもそもE.A.T.はシュルレアリズムやダダのように時間と場所、担い手である主体が特定される、つまりは特定の芸術的なイデオロギー、傾向に基づいた芸術運動ではまったくなかった。
一九六六年に発足したE.A.T.は同じ志向を共有する芸術家たちの集まりではなく、まずは異なる組織(大学や企業、研究所)に属す科学者やエンジニアが、それぞれ組織を離れた個人というステータスで形成されたネットワークであることに最大の特徴があった。あとは全米のみならず世界中の技術的問題を抱えたアーティスト(いかなる傾向、メディアに関わる芸術家であれ、問わない)が、このE.A.T.のネットワークにアクセスし、技術的な相談を投げかけさえすれば、その解決策を持つ、もっとも適切、優秀なエンジニアがネットワークの中から探し出され応答してくれるという次第である。
E.A.T.は、問いと答え、アーティストとエンジニアを一体一に結びつける仕組みであって、極端にいえば電話一本、事務所の一つもあれば、それ以外の何ものもハードは必要ないというのがビリーのコンセプトだった。
カメラを越える複雑な機材はよほど必要でない限り、買ってはいけない
『ビリーのグッド・アドヴァイス』
E.A.T.が持続できたのは、いかなる設備投資も大掛かりな研究所の設置も行わなかったことにある。ビリーはいう「設備を整備することは、こういう組織にとっては自己破壊的な要因にしかならない」。
問題を解くのはソフトであってハードではない。しかし才能を持つエンジニアとアーティストを結びつける機会の開発についてはあらゆる方法を試している。そもそも問題はアーティストではなく、エンジニアの参加者をいかに増やすかにあった。電子工学年次学会には毎回専用ブースをだし、エンジニアの勧誘を行なった。
個人を勧誘したのちに(才能ある個人のネットワークを作ったあとに)、企業、組織の協力を求めるという道筋がE.A.T.の方法だった。なぜならばエンジニアの能力、寿命は組織のそれよりも長い。日本のここ十年の状況が教えてくれるように、組織はすぐ崩壊するのだ。
ビリー自身,ベル研究所の主要スタッフであったが、ベル研究所が全面的な援助をするのは、一九六〇年のティンゲリーの作品が大きな話題になった後である(だが、すでにティンゲリーの作品はビリーに勧誘されたベル研究所の沢山のスタッフが、ビリーとともにヴォランティアで手伝っていたのである)。
最盛時には二千人以上の会員が集まったエンジニアたちにE.A.T.が与えたのは文字通りアフター・ファイヴの仕事、out of work──ルーティン化した研究、組織内論理からは到底得られない別の回路の可能性である。エンジニアたちはクルーヴァーによって役にも立たず、お金にも結びつかない仕事にリクルートされたことになるが、組織の外に拡がるネットワークへの参加は、結局のところ、組織を超えてサヴァイヴァルしていく自律したエンジニアとしての能力を獲得させることになった。
アーティストがE.A.T.に電話をかけてくる。必ずビリーが質問するのは以下の質問である。ビリーは彼らがどんな作品を作ってきたか、どういう傾向の作家かなどということにはいっさい関心を持たない。
(1) 作りたい作品はどれくらいの大きさか?
(2) どれくらいの観客に見せようとしているのか?
(3) 展示は屋外か屋内か?
この質問に答えられないアーティストは、アーティストとはみなされない。ただ夢を見ているだけだ。反対にこれらの基本的な質問に答えられるなら、そのアーティストは、そのアイデアを現実的なものとして考えている証拠である。すでに述べたようにE.A.T.がアーティストに期待している役割は、テクノロジーに新たな輪郭を与えることだった。誰も思い浮かばなかったような、魅力的な課題─枠組みをテクノロジーに与えてくれる存在。ルーティン化されたエンジニアの感覚には、現実離れし馬鹿げた夢想にしか思えないアイデアさえも、現実的な大きさとスケールを持ったものとしてリアルに感じることのできる力、アーティストに求められるのはその能力であり、むしろエンジニア以上に現実的でありつづけることである。
問題がこうして的確に把握されていれば、たった五分で答えはでる。「不可能なものは何もない」。テクノロジーというのは原理的にいって、問題が的確に与えられれば必ず答えを出すものなのだ。繰り返せばテクノロジーの欠点は自ら問題を創出し、自分の形態を決定できないことにある。ゆえにアーティストの存在が要請される。
混乱を創り出せ。それが助けになる
『ビリーのグッド・アドヴァイス』
ワイリー・サイファーは『文学とテクノロジー』で、一九世紀以降の芸術と科学およびテクノロジーの関係について、以下のような分析を行っている。
テクノロジーは、基本的に社会制度上の枠組みに規定されているために、その合理性はこの与えられた枠組み──目的(それを自ら疑うことはできない)内での整合性でしかなく、結局のところ、その方法は効率を優先させた吝嗇の原則にのみ基づくほかはない。
科学は、世界の外部に位置する中立的な観察者(不在の観察者)という立場を前提とすることで真理への帰属という正当性を確保してきたが、この中立的かつ特権的な観察者の位置は、それ自身の立場を観察できない(理論自身の正当性をその理論では証明できない)という意味で破綻せざるをえない。言い換えれば、その立場も無自覚的に社会制度に包摂されてしまう。
対して、芸術は経験主義的な主観の曖昧さから抜け出そうとして、テクノロジーの非個性的な方法に接近し、あるいは科学主義的な観察(疎外された傍観者の視点)に依拠せんと試みてきたが、結果として上記のような、それぞれが抱える問題をそのまま抱え込むことになった。
要するに、テクノロジーも科学も自らの理論的な枠組みの正当性を自ら証明できないし、自ら規定することもできない。とすれば問題は、いかにその枠組みが生成してくるのか、その生成の揺れ動きをいかに捕捉するかというメチエの獲得にある。当然のごとく、サイファーが再規定しようとする芸術の可能性もここに絞り込まれる。
サイファーは次のように書く。
(結果として現在では)科学は必ずしも一つの理論的説明に常には帰することができないような経験の即物的データをも保証しうる経験主義に戻っていった。データこそがシステムなのだ。事実の具体性は自然法則によって説明できるかもしれないし、できないかもしれない。出来事は起こる。そして出来事こそがリアルなものなのである。こうした与えられたデータに対する存在的な寛容さは、科学を一種のブリコラージュであるハプニングやアクション・ペインティングに類似した行為的な立場に導いていく。存在とはそれ自体が構造であり、量子力学において矛盾は、現実性の徴候であるということもあるのだ
Syper, Wylie. Litterature and technology; thealien vision, New Yorkm Random House, 1968.
一九六八年に書かれたサイファーの記述は、そのまま同時代のE.A.T.の本質を説明しているといっていいだろう。言い換えれば、E.A.T.の活動の本質も揺れ動く偶有的な出来事の発生をそのまま創発的なシステムとして補足する、その方法の探究だった。
今日の科学者は普遍的法則に気を払うよりも事物が全面的に偶有性の中にある、あリ方を研究することに没頭している。新しい科学は科学者が何を行なったかという行為の集計──中世の教会を建築した無名の職人のように、個性を抹消したチームワークによる活動として捉えられるほかない──として説明されるのである
Syper、同上
「エンジニアとは彼ら自身が芸術作品の素材なのだ」というビリー・クルーヴァーの言葉に示されているように、E.A.T.の活動でも、もっとも創造的な位置を与えられていたのは、物体としての作品というよりは、おそらく人と人の具体的な連携を含んだ作業プロセスそのものの創出であったはずである。「アウトサイド・アート」と名づけられた一連のプロジェクト──通信衛星を使ったインドの農村での双方向的教育プログラム(一九六九)やファクシミリを使った「ユートピアとヴィジョン」(一九七一)等々──でのエンジニアの関心はエンジニアとアーティストそして一般参加者が形成する行動の連鎖そのものにある。ここで作品の素材は個々の参加者の身体と行為すべてであり、そのシステムはそれ自身を要素として含む全体である。偶発的な連鎖が創造的な過程を生み出す。さらにその過程自体をデザインすること[*3]。
E.A.T.の活動は、当然のように、政治的なアクティヴィティと近接する場面も多かった。実際たとえばオイヴィント・ファールシュトレーム(今回の展覧会で上演された最も貴重な映像の一つはビリーと同じスウェーデン出身の、この天才アーティストによる伝説的なパフォーマンス《キスはワインより甘し》だった)やハンス・ハーケという、作品の政治性で知られた多くのアーティストが深くE.A.T.に関わってきている。しかしビリー自身は表向き、ほとんど政治的な表明をしていない。E.A.T.の活動がその本質において、オルタナティヴな社会システムそのものの創出に他ならなかったとしても、彼にとっては、それは政治の問題(政治に対して、ビリーは一言「くだらない」と言う)ではなく、科学が直面していた認識論上の問題、そしてエンジニアたちが日々突き当たる方法的な問題から自動的に引き出されたプロジェクト以外の何ものでもなかった。でなければエンジニアそして科学者であるビリーが真剣に取り組む価値はない。いいかえれば政治は外にあるのではなく、科学やエンジニアリングの中に(そしてどこにでも)内在しているのである。
再びサイファーからの引用。
必然的なものと同じように偶有的なもの、偶然的なものが持つ現実性を認めることは、先端的なテクノロジーそしてエンジニアリングにも影響を及ぼしてきた。エンジニアは偶然性を開発し、またあらかじめ考えられた管理統制から、ものの配置や編成を解き放すことを学ばなければいけないと言われている。新しいエンジニアリングにおいて、もはや『概念は必ずしも発見に先行せず、事実、しばしば発見を前もって排除するもの』になっている。もしテクノロジーが既知の目的への出来うる限り効率的に管理された道具であることをやめ、偶然的なものを偶然的なものへ適応させ、それ自体、新たな発見を行なうための乗り物へと変身すれば、おのずと職人的な精神とそして芸術が愛するような偶然へと開かれていくだろう
Syper、同上
「テクノロジーを人間に着地させるもの、それが芸術だ」とビリーは断言する。ここで言われている人間が、もちろん量子力学を通して初めて確認されるような、極めて不可思議な振る舞いをする人間の群であることは間違いない。直線的な論理では決して捕捉しえない不確定さをつなぎとめることができるのは、もはや(相変わらず)人間という形象─集合概念だけなのである。
恐れるならば、何も始まらぬ
終わったことは忘れられる。終わってないことは思い出される。何かが終わるとき、それはもう存在していない
『ビリーのグッド・アドヴァイス』
(本文中のビリー・クルーヴァーの言葉は筆者との会話のほか、以下のインタビューなどに基づいている。
・ The Godfather of Technology and Art; An interview with Billy Kluver
・ The engineer as catalyst: Billy Kluver on working with artists
・ TURNING TO TECHNOLOGY legendary engineer billy kluver on artist-engineer collaborations)