アトムについて
いうまでもなく、アトムについての哲学的思索は古代ギリシャのデモクリトスに端を発す。
世界のすべては、基本元素として確定できる数種の(しかし無数の)アトムたちの、組み合わせによって構成されており、このアトムをとりのぞいたとき、そこには、その様々な組み合わせが展開する場であった、ただ空虚のみが、不変なる場として残るのだ、と。
こうした思考が辿るだろう結末の決まり通り、デモクリトスは決定論に陥る。すなわち──デモクリトスは世界に生起する多様な現象、そしてそれを瑞々しくとらえる感覚に、積極的意味を見いだせず(そこに自在に見える現れは、愚かな感覚を惑わす、唯物的な必然としての偶有性にほかならない)、あげく、自由という概念を放棄し、ついには、魂の存在を肯定しうる論を組み立てることも断念するしかなかった(彼は自らが魂を持つことを、否定するしかなかった)。──世界という必然に対して、われわれは自らの目をつぶし、耳を塞ぎ、沈黙するしかない。世界を構成するだろうアトムたちのすべてを、唯物的に知る=確定するか、あるいは(それができないのであれば)、むしろ、何も知らないこと=すべての現象と時間への関心を放棄し、すべての現象のいずれにせよ一つの結末であり、起源である、空虚という必然に還元するか、のどちらか一つを選ぶしかない。そして事実、デモクリトスは自らの目をつぶそうと試みた。
しかし デモクリトスの理論的枠組みを踏襲しつつ、エピクロスはデモクリトスとまったく反対の結論に至る(若きマルクスが詳述しているように)。たしかに普通に考えられるようには人に魂は宿らない、しかしアトムの存在こそは魂のみなもと、魂そのものとなるだろう。つまりは感覚そのものの原理となる。感覚とはアトムなのだ。そしてアトムこそが魂だ!
たとえばエピクロスはこう考える。動いているものと止まっているものの違いとはなにか? エピクロスの考えを敷衍してみよう。それは天体である星座と花火の違いと同じではないか。あるいは花火と花の違い。
動きの核心にあるのは、物質による異なる物質に対する反跳である。アトムによるアトムへの反跳である。そして、この反跳こそが感覚である。それは時間軸そのものを定義する物差しである。端的に星座と花火の差は、写真=画像の上には存在しない。それらはとても似ている。星座と花火の差異は、人間と(その人間が観察するところの)アトム(=物質)との差異に等しいのではないか。写真の上で見れば、アトム(=物質)と人間は、とてもよく似ている=いや、まったく違いがない。
さて、もし無数の写真の集まりが映画なのだとすれば、比喩として、映画はもちろん、天体=星座に似ているということになるだろう。しかし星座はあまりにも遠すぎて動いて見えることはない。反対にいえば、同じ星座を観察する世界の様々の場所の差が互いにあまりに、近すぎて、星座は動いて見えない。いや正確にいえば、星座、天体を見ているわれわれ(が位置する星)自身が、その天体の中に含まれるひとつの星であるゆえに、正しく動きを観測できない。 星座は、だから、人の人格と呼ばれるものに、とてもよく似ている(Twinkle, twinkle, little star, How I wonder what you are.)。さらにいえば、星座に対する態度は、死者に対する態度そのものである。いつでも星座は、永遠に死んでいる、というべきか?
だが、もちろん違う! 星座こそ、大きな一瞬の花火=ビッグバンだった。それは爆発であり、われわれがとらえることの不可能な高速度の運動である。にもかかわらずそれが花火に見えないのは、われわれが、そのあまりにも短い(近い)時間(空間)の中の一部として閉じ込められているからである。ゆえに、その短さを長大な時間と、はかり損ねているからである。一言でいえば、それは星座に対する、われわれ人間が──自らアトムとして(なんとちっぽけな心のアトムであることか?)行う──、(短すぎ、せっかちすぎる)反跳に由来する。
エピクロスの考えを要約しておけば、反跳は空間に帰属しない(すなわち、それは図形として一般化されえない)。反跳とは、アトムそれぞれに、その特異性そのものとして内在化されたものなのである(それは、アトムのそれぞれの跳び方、逸れ方だ)。それこそが時間であり(すなわち、さまざまな時間がある)感覚、つまり生そのものなのである。Vivre sa vie. そこには中心としてのひとつの点、ひとつの線があるのではなく、原子=アトムとしての無数の光の運動、生がある。 もし星座が永遠であるのであれば、花火は星座である。それは永遠だ(。もちろん、花火以上のスピードで空を飛ぶことのできる、アトムにはそう見えたに違いない)。星座と花火は同じだと。 だから、フィルムとはアトムであり、映画とはアトムとアトムすなわちフィルムとフィルムの反跳として、そしてそれに対する、われわれもまたアトムの反跳として、はじめて映画として見える。(ゆえに、せっかちな人間には見えない人もいる)。エピクロスの教えに従って。
というわけでアトムが持つように映画は魂を持つ。 アトムが魂を持たないならば、映画などどこにも存在しない。
おまけ
「石板を持ってこい」というセンテンスによって、もし石板自らが飛んできたとき、その石板が、そのセンテンスの意図=志向性(intention)を理解していると、多くの保守的な人は容易に認めないかもしれない(特にジョン・サールのような人であれば)。
しかし「石板を持ってこい」という言葉の意図=志向性(intention)を理解していないのは、むしろ、その人(特にジョン・サールのような人)である。なぜなら飛んでくる石板こそ、その言葉の意図そのものであることは、疑いようのない自明な事柄だから。正確な意味で(人間以上に)魂も知能もある犬や猫であれば、「石板を持ってこい」という言葉の意図が、まさに飛んでくる石板それ自身によって遂行されていることは自明だろう。
すなわち意図をもち、心をもっているのは、石板というアトム=物質それ自体であり、その石板の反跳を引き起こすことになった、「石板を持ってこい」というアトム=物質としての言葉それ自体である。それに比べて、(その言葉を発したと考えている)人間はこうした意志を持った言葉を媒介する、(意志をもちえぬ)メディアにすぎない。
端的に、言葉を発した人間は、その言葉が意味することが何か、何を意図するのか、本当は何も知りえないのである。できるのは、その言葉(の意志、魂)に従って、あとから自らの生を整えること、すなわち反跳することなのである。
(楳図かずお『わたしは真悟』が、〈ボクハイマモキミヲ アイシテイマス〉──という言葉それ自身が意志をもつ話であったことを思い起こそう。その言葉を発した悟もマリンも、その言葉の意味(intention)を知らなかったのだ。誤解されているように、これは機械=ロボットが心を持つ物語ではない。最後に機械はばらばらに解体し、かろうじて意識をもった、言葉だけが這いずりまわり、そして砂浜に記された、その言葉──〈……アイ……〉だけが残る)。
注記(おまけのおまけ)
周知のごとく、デモクリトスこそは〈われわれが見ているのは、事物の表面から切り取られた薄片である映像=エイドラにすぎない〉という認識において、映画装置の基礎ともなる理論を構築した哲学者であった。
だが彼にとって、その論は感覚に依拠する認識に対する絶望をもたらすものでしかなかった。──ひとつの本体から、とりとめもなく、無節操に発出する、無数の異なる薄片=エイドラ。そこから見いだされるさまざまなる運動も類似も、なんら本質的なものではない、と。
しかし同じ認識がエピクロスにとっては希望となった。なぜなら、アトムそれ自身が、その薄片であり、われわれもまたアトムで構成されているからである。(もちろん、この無数のアトムの他に本体はない。デモクリトスの認識と同じく)。