「文化活動や教育や研究、あるいは発表や報道は、専門領域」という言葉がありますが、「専門」によってあらかじめ分節され、領域分けされています。「分節」という言い方にしてありますが、相互の領域は「分断」されている、というほど風通しがよくないことはよく言われます。またそうした認識のもと、諸々の領域の境界を横断した学際的な活動が必要だということも言われてきましたが、なかなかうまくいきません。
一方で(もしかしたら反動かもしれませんが)、現場で実効性をもつ、より実践的で専門的な技術の習得が重視されるようにもなっている。たとえば語学であれば、かつては英文学や比較文学などのコンテンツ、素地となる教養を身につけることは語学を学ぶうえで必至条件でした。けれど今は教養とは関係なく、海外へ送り込めば英語ができるだろうという、いわばビジネス英会話をそのまま学科にしてしまうような状況になっている。アニメなどの科目が増えているのも同様の現象で、要するに、大学が職業専門学校化しているわけです。
「領域を横断した学際的な活動」というものがうまくいかない理由は、それぞれの専門性を前提としたうえで、またその「専門領域」のシステムの保持を前提としたうえで、相互の翻訳や交換などを行おうとするからです。かつて啓蒙主義の時代に議論されたのは、諸学問の分化がはじまる前の共通の土台、それぞれの知識や技術を取り入れる前にある、おおもとの土台を獲得しようという課題でした。そして、このような起源をもっているのが、人文科学なのです。
しかし皮肉なことに近年、当の人文科学や教養学部というものが「役に立たない」「不要だ」と言われるようになったのは、人文科学もまた極度に専門化し、それぞれの領域のなかで複雑に発達した表現ルール──言語秩序、言葉遣い、専門用語(ジャーゴン)──の規則に縛られ、身動きがとれなくなっている印象を与えているからです。
たとえば、簡単な質問に対しても、その領域での先行研究や言説が逐一参照され、質問された本人が判断しているという印象が往々にして少ない。「○○ではこう言われている」「××はこういうふうに解釈されている」みたいな言い方になっている。しかし、外部から質問する人にとってはそんなことはどうでもいいし、そもそも知らない。だからそうした言説は、領域が閉じていると思われる。つまり、領域ごとに別の歴史をもって展開してきていて、その歴史的な配慮、判断に束縛されている、その領域の権威にソンタクしているだけだと思われる、ということですね。
判断を求めているのに一向に判断がなされない、判断力がないようにみえる。しかし、専門領域に分化して展開すると、どこでもこういう判断になる。ある領域の中での常識、ルーティンにしたがって判断しているだけでは、その領域での蓄積ケースがないものを判断することができず、躊躇してしまう。例外的な状況への対処ができないということは、その領域の知や技術が安定しているということでもありますが、想定された範囲においてでしか有効ではありません。
共通の土台をさぐるはずの人文科学ですら、閉鎖的な学問、技術になってしまっている。すべての産業構造、企業や組織でも同じことが起こっています。ですから、大学で実践力のある技術を教えるということも、おおよそうまくいかないはずです。それは大学の組織や教育のカリキュラムというものの性格を考えるとわかります。この意味で、現行の教育システムをただ否定して、実践力をつけるというのであれば、現場に奉公にいくほうが早いでしょう。しかし問題は、部分的な知識や技術は身につくけれども、それがどういうシステムのどの部分なのか、全体がどのように決定されているのかがわからない、ということにある。全体があっというまに、根こそぎシステム替えされてしまうことが、うまくいっている現場では起こります。また、うまくいっていない現場では、どこがまずいのかわからないまま、今まで皆がやっていることを繰り返しているだけなのに、世の中との対応がうまくいかなくなり、いずれ崩壊してしまう。これは美術館でも大学でも企業でも国家でも同じです。「既得権」と呼ぶのは極端でも、ルーティンの仕事のやり方を前後左右の人間関係(あるいは歴史的踏襲)での「善」だけで決定している限り、そうなります。
現在の世界は、こうした意味であらゆる技術体系(これは人間の組織を含みます)のルーティンがたちゆかない、無効になっている状況だと思います。これは価値観にも反映します。「貸家にいるより家をもちたい」とか「レンタカーよりマイカーをもちたい」などという欲望も、生産関係ないし社会関係を含んだあるシステムの前提の中で正しいだけで、突然地震が起こったりといった不安定要素があると壊れてしまう。
では、不安定要素が多いときにいったい何が起こっているのか。それをマイナス面でなくプラス面から考えると何が言えるのか。テクノロジーそれ自体を賛美するわけではないですが、一般化して言うと、新しいテクノロジーができるとかならず発生することがあります。技術は最初想定した役割や目的、それと対応して考えられたロジック(アルゴリズム)で作られるものですが、ひとたび革新的な技術ができると、その想定された枠組みを超えた「なぜこういうことができるのかわからない」という事象が大量に発生しはじめるのです。人類の過去の歴史を振り返ると、現在の人文科学の起源と先に述べた、18世紀から19世紀にかけての啓蒙時代に起こったこともそうでした。「何でそうなるかわからないがそうなる」という事実が先にあり、それをとりあえず反復可能なものとして、技術的に制御しまとめる。理論はあとでついてくる。なぜそうなるかはあとでわかる。
これは、あらかじめある理論枠では理解できない事態が起こっているということです。異例な事態が起こっている。けれど先ほど言ったように、専門性とは、蓄積してきた専門知、認識図式を適用して判断しようとするものですから、理論から演繹して考えるか、もしくは既存の理論に落とし込み、そこに位置づけ理解するので、判断形式がひっくり返っています。そうではなく、判断できない特殊な事態が先にあり、それがなぜ起こったのかを帰納的に考える。つまり、特殊から普遍を導き出すわけです。
たとえばそれは、ディープラーニング、マシンラーニング、あるいは人工知能というジャンルですでに起こっていることです。将棋や碁は人工知能の方が生身の人間を凌駕していますが、なぜこういう判断をしたのか、端的になぜ勝ったのかわからない。AIから棋士が学んでおり、プログラムを作った人間もわからない事態が発生しています。正確な意味では、まだそれは「自律した知能=精神がある」とみなされていないかもしれません。しかしAIはすでに他者となっている。他者の判断が、AIによって突きつけられている。
面白いのは、かつては単に認識の対象(認識する側ではなく認識される対象)だった、すなわち考えないモノとして扱われていた事物や、多少の知能は認められていても単純なアルゴリズム(因果系)のセットくらいに考えられていた生物の活動が、AIと同じようにまったく予想もしなかったような知性=判断系を備えていることが明らかになってきたことです。これらはAI問題と平行し、また呼応、影響しあっていると思います。その共通点は、認識する側が前提としていた知性の枠組みや理論が、現に進行しつつある事態に対応できなくなった、説明できなくなった、ということです。
捕足すれば、今までは自分たちの認識、理解の仕方を疑うことがなかったけれども、今は疑いやすい状況になった。通常は、理論的に整合的に語れない出来事は、非合理的な事象として排除される。そもそも滅多に起こらない事象は、同様の証例が集められないので排除されやすい。しかしそれが、テクノロジーの進歩によってデータが集まりやすくなった。いわゆるビッグデータ状況です。同様のことがあらゆる領域で起こると、こんどは滅多に起こらない出来事への許容力というか、それ自体を考察対象にしようとする枠組みの拡大、ゆるみが出てくる。たとえば竜巻は日本には存在しないとされていましたが、ひとたび理論枠が変わった途端、昨日も、当たり前のように佃で発生しました。あるいは、ネコが言葉を話すのは馬鹿な勘違いと言われてきましたが、今では多くのデータがあり、動物学のほうが追いついていません。ひとたび認識態度が変わると、データは一挙に変わり、ネコがいつでも話していたことがわかるのです。他人が聞いたら何を言っているかわからない老人の言葉を、家族ならば正確に聞き取ることができるのと同じでしょう。
既存の理論枠でうまく整合的にとらえることのできない事象が多数生じている。これは自然現象だけではなく人間社会においても同様です。それに経験則のみで応答しているわけですが、それではシステムとしてはいちじるしく不安定、ということになります。どうすればいいかという答えはありませんが、とりあえず、まったく同じではないけれど、こうした事態は歴史上何度も現われていますから、それが参考にできるだろうというのが一つあります。それともう一つは、こうした異常事態、既存の理論=常識的理論からすると整合しない例外的な事象が、にもかかわらずそれなりに理にかなっているように思える、「make sense」なものとして了解できる、ということにあります。では、その了解はどのようになされているのか。
この二点が重なったところとして、先ほどから挙げている、18世紀から19世紀に設定された基盤的な認識、啓蒙時代の自然科学/哲学思想が注目するに値します。現在起こっていることは、啓蒙時代ないし産業革命期に起こっていたことと、ある意味似ている。啓蒙時代は既存の理論枠が無効になった特殊例を、あらためて研究しようとしはじめた時代です。今まで見えなかったもの、対象として捉えられなかったものも、排除せずに扱おうとした。そう仮説することによって、それまで了解できず排除されていた現象も把握され、理解できる領域がいちじるしく拡張した。これはテクノロジーによってデータが拡張したことと同時か、もしくは先ほど言ったようにテクノロジーが先行していたかもしれません。
こうしたことに適応できる精神あるいは知能の柔軟性、精神の拡張性=可塑性こそを学習するべきでしょう。この場合の学習は鍛錬、訓練、演習そのものであり、基礎体力=精神の柔軟性を磨くことです。たとえば(ペスタロッチの実物教育などが先行していましたが)、フレーベルの教育システムはこういうところからでてきました。ここに立ち返らずに専門化(分業化)してしまえば、全体がみえなくなるのは当たり前です。
ですから、分業が起こる前の事象に立ち返り、そこにあった原-技術もしくは原-認識を再獲得し再編する必要がある。それこそが「学際」を行うときの前提になります。さらに言えば、参加するすべての領域の人がそうした態度を共有している必要がある。これは専門性を考えると危険な賭けです。一方で、こうした認識がなくても、テクノロジーの進展は自動的に、専門化=分化して築き上げてきた体系や組織を、新しい例外的なデータを大量生産することで破壊してしまう。
啓蒙的な哲学思想の認識が、現代に完全に適合するとは限りませんが、起こっている事態はかなり共通していると言えるでしょう。一言でいえば、その時代は、われわれが人間であることそれ自体が、既定事実ではなくなった。そして、芸術という概念──奇妙なカテゴリーもまた、この時代に発明されました。
芸術とはあらかじめ定義があるのではなく、発見的なものであることにその特徴がある。芸術が「新しさ」や「創造性」と結びつけて語られるのは、今まで見たこともない、あるいは、見ていたけれど重要だと思ったこともない、美しいと思ったこともないモノ=つまり、例外的なヘンなモノを、「美しい」とか「なるほど」とか思ったりさせる効果のためです。要するに、そこで新しいテーゼ、理論、認識が発明、発見されるわけです。そういう滅多に起こらないことを起こす技術として、安定しないことをする領域が存在することが認定され、必要とされるようになった。
中谷宇吉郎が言った「科学の心」とは何か。ぼくの考えでは、「科学の心」は、「科学する心」ではない。つまり、われわれの心があり、その心が科学をするのではなく、科学それ自身が主体であり、科学そのものが心をもつ。「○○とかけて××と解く。その心は?」という落語みたいですね。○○と××に共通する本質は?と問うているわけですが、自然科学の場合、われわれの精神(心)にあわせて世界を理解するのではなく、つまり既存の理論に合わせて世界を理解するのではなく、相手のもっている「理(ことわり)=心」のほうにわれわれを合わせる、それが「科学の心」です。
新しい認識を理解するには、「科学の心」があることを信じてことをすすめるしかない。よくわからないにもかかわらず「絶対に理がそこにある」と謙虚に事象に対峙する。自分の認識を自己批判する冷静さ、客観性が必要となる。当たり前ですが、それこそが「科学の心」でしょう。